中華民国の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:50 UTC 版)
辛亥革命による1912年の中華民国成立後、ナショナリズム(民族意識)の高まりの中、洋装の自由さと伝統の折衷を意識して、洋服を旗装風に改良したデザインが1920年代半ばに登場する。当初のデザインは背心(ベスト)をゆったりと身幅をとり身丈に伸ばしたものであった。発明者は女学生という説、花柳界という説がある。この衣服がチャイナドレスの直接の源流と考えられる。また、スラックスの替わりに西洋風のスカートをあしらった物も女学生のファッションとして流行した。 1920年代に上海租界から流入した西洋文化の影響を受けて発達した新型旗袍は「摩登」(「モダン」)な服装として、中国の女性が従うべき伝統的な「三従四徳」の規範から西洋的な男女平等を表現するための服装として当時の中華民国の人々からは受け止められ、男性からは批判を受けた。 1930年代に入り、上海にモダンブームが起きる。伝統社会では忌避されてきた腕や脚部を露出する行為が旧社会からの解放として提唱された。この時期に登場した新式旗袍が、日本語のチャイナドレスにほぼ該当する。新式旗袍では、スカートやスラックスを廃止しワンピースに仕立て、スリットから脚部を露出するように改められた。また、胸や腰の曲線を強調するためにタイトなデザインが採用された。チャイナドレスは有閑階級の若い女性や花柳界、芸能界のファッションとして流行した。新式旗袍は上海で流行し始めたので当時は海派旗袍と呼ばれることが多かった。流行は各国の華僑社会、そして戦前の日本のモガにも及んだ。 日中戦争下では戦時中ということもあり、食糧問題や医療問題が衣料供給よりも優先されたために華美ではない旗袍が流行し、対日戦争末期から終結直後の民国期には男性の「青年装」と並んで、女性には「短旗袍」と呼ばれる非常時向けの活動性を重視した旗袍が推奨され、1947年頃の旗袍はファッション性よりも「国民服」的な位置付けが重視される衣装となっていた。
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