中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 11:20 UTC 版)
「第二次上海事変」の記事における「中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援」の解説
1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟、呉県で洋澄湖、澱山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰と無錫の間)、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。長江沿いに対日戦のための要塞線は、「ヒンデンブルク・ライン」と称された。 1936年、幹部参謀旅行演習を実施し、龍華、徐家匯、紅橋、北新涇、真茹(中国語版)、閘北停車場、江湾、大場江湾、大場(中国語版)の各要点における包囲攻撃陣地の構築、呉福陣地の増強、京滬鉄道の改修、後方自動車道路の建設、長江防備と交通通信の改善、民衆の組織訓練等を行った。 1936年末頃から、1932年の上海停戦協定に違反して、保安隊と称する中央軍を滸浦口 (碧溪街道(中国語版))-安亭-蘇州河-黄浦江-揚子江に囲まれた非武装地帯に侵入させ陣地を構築していた。北支事変勃発後、中・南支の情勢が逼迫するなか、上海附近の兵力を増強し、頻繁に航空偵察を実施していた。 1936年4月1日、ドイツ軍事顧問団の第五代団長ファルケンハウゼン中将は、蔣介石あての「極秘」報告書で「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手があがって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争にふみきるべきである」と進言した。中将は、中国の第一の敵は日本、第二の敵は共産党であり、日本との戦いの中で共産党を「吸収または消滅」させるのが良策であると判断していた。中将は、それまでは中国の防衛問題に関する助言しか与えていなかったが、1936年のメモを皮切りにもっと強い主張をするようになり、その中で日本側に奇襲をかけ、日本軍を長城の北方へ押し返し中国北部から追い出すことを提案した。 京滬区の軍事責任者に就任した張治中は、1936年に「上海包囲攻撃計画」を立案し、上海周辺の日本軍への先制攻撃の準備を進めた。ファルケンハウゼン中将は、北海事件の直後の9月12日、「ただちに河北省に有力なる部隊を派出し、空軍の掩護のもと所在の日本軍に先制攻撃を加え、河北省を奪還すべきである」と提案した。蔣介石は、提案を採用しなかったが、9月18日、「戦事一触即発之勢」と判断し、軍政部長何応欽に「準備応変」を指令した。10月1日、中将は、軍事委員会弁公庁副主席劉光を通じて、漢口、上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権を握るよう提案したが、何応欽は時期尚早である旨を述べるとともに、「ファルケンハウゼンの熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる、国運を委ねるべき相手ではない」とも指摘した。蔣介石は「加仮我一年之準備時期、即国防更有基礎矣」と判断し、10月8日、外交部長張群との交渉を前にした川越茂と会談し、10月22日、第六次剿共作戦を準備すべく西北剿匪副総司令張学良と会談するため、西安に飛んだ。中将は、1937年4月3日、軍事委員会弁公庁副主席劉光に書簡を送り、すみやかに防衛態勢をととのえるべきだ、とくに朧海、京漢、津浦線の確保と青島、済南の要塞化、さらに塘沽、天津、北京に「奇襲進駐」をおこなう必要がある、と強調した。 盧溝橋事件後、張は日本による陸軍の上海派遣、揚子江にある日本軍艦の上海への結集、日本による無理な要求の提出などの事態が発生した場合、主導権を獲得するため先制攻撃を発動するよう国民政府に提案した。蔣は、提案の主旨を承認し、先制攻撃の態勢を作っておき発動の時機については命令を待つよう返電した。八月一三日以前に、中国側は既に先制攻撃を仕掛ける決断をしていた。 中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、チェコ製の軽機関銃などを装備し、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊と評価されていた。1937年8月6日、蔣介石は国際宣伝組織を結成するためCC団の陳立夫を上海に派遣した。蔣は同日の日記(中国語版)に「毒瓦斯をもっていく」と書いており、実際に中国軍による毒ガスの散布は日本軍によって確認されている。
※この「中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援」の解説は、「第二次上海事変」の解説の一部です。
「中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援」を含む「第二次上海事変」の記事については、「第二次上海事変」の概要を参照ください。
- 中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援のページへのリンク