中華民国の対応と周鴻慶事件
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「LT貿易」の記事における「中華民国の対応と周鴻慶事件」の解説
LT貿易の開始とそれに伴う貿易連絡所設置、日中記者交換協定締結などの動きは、中共と対立する国府(中華民国政府)を刺激し、日華関係は次第に悪化していた。そのような状況の中、さらに両国の関係を悪化させたのが周鴻慶事件であった。 周鴻慶事件とは、1963年9月に中華人民共和国油圧機器訪日代表団の通訳として来日した周鴻慶が、全日程を終える直前の10月7日早朝、ソ連大使館に亡命を求めたことから始まった事件である。周はその後、亡命希望先を台湾に変更。亡命先に指名された国府は、日本側に周鴻慶の引き渡しを強く求めたが、中共との関係悪化を恐れた日本外務省はパスポート期限切れを理由に10月8日周を拘留、その後10月24日には「本人の意志」が中共への帰国に変わったとして、翌1964年1月10日中国大連に送還した。 この一連の日本側の対応に国府当局は激怒し、駐華大使を召還すると共に日本政府へ厳重な警告と抗議を行い、日華関係は断絶の危機に瀕した。この国府側の警戒を解くため、池田首相・大平正芳外相は、吉田茂元首相に個人の資格で台湾に訪問することを要請。吉田は池田首相の親書を持参して台北へ赴き、要人と会談した。しかし帰国後の1964年(昭和39年)5月、張群国民党秘書長へ宛てた吉田茂の書簡の中に対中プラント輸出に輸銀融資は使用しないと表明してあったため(「吉田書簡」)、先に契約が成立していた倉敷レーヨンに較べ、ニチボーの契約調印は大幅に遅れることになった。
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