駐華大使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/28 18:10 UTC 版)
「アレクサンドル・パニュシキン」の記事における「駐華大使」の解説
1939年7月、ソビエト連邦人民委員会議通商条約実現担当全権代表として中国に派遣。間もなく、駐華ソ連非常全権代表となると同時に、NKVDの在華総支局長として中国内の12の支局を指導した。1939年8月、重慶に移る。 中国では、中ソに対する日本の意図、特に関東軍のソ連攻撃の可能性を追跡した。この任務は最重要視され、戦局が好転する1943年半ばになって初めて解除された。パニュシキンは、情報入手のために国民党内の抗日派・親ソ派と信頼関係を構築することに成功した。パニュシキンが指導する支局は、中国、日本、西欧の情報だけではなく、ドイツのソ連侵攻の1ヵ月半前にドイツ駐在武官からドイツ軍の作戦計画を入手することにも成功した。 外交面では、国民党政府をして日本に対して積極的抵抗を行わせることに注意が向けられた。パニュシキンは、元旅団長として、蒋介石個人にも助言を行い、長沙の防衛計画の立案・実行にも参与した。また、国民党と共産党間の衝突防止にも多くの努力を費やした。 中国での活動に対して、パニュシキンにはレーニン勲章が授与された。1944年、モスクワに戻り、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)国際情報課副主任に任命され、1947年5月まで働いた。
※この「駐華大使」の解説は、「アレクサンドル・パニュシキン」の解説の一部です。
「駐華大使」を含む「アレクサンドル・パニュシキン」の記事については、「アレクサンドル・パニュシキン」の概要を参照ください。
- 駐華大使のページへのリンク