駐米大使館附武官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 23:30 UTC 版)
対米英戦争の危機が迫る中、横山はアメリカへ赴任する。事態は悪化しており、大陸政策から海洋政策への転換が必要であると判断し、報告書を送っている。アメリカ海軍省作戦計画部長になっていたターナー少将を訪れ、日米戦争回避に協力する約束をしている。この時ターナーは「日本海軍と戦うのはアメリカ海軍としても避けたい」と述べたという。駐米大使・野村吉三郎は着任の途次、ハワイ、サンフランシスコにおいてアメリカ海軍の鄭重な歓迎を受けたが、これはターナーの指示によるものであった。しかしワシントンD.C.到着の際、アメリカ政府の出迎えは儀典課長のみであった。 日米交渉にあたっては野村大使を助け、武官補佐官の実松譲中佐らと協力し最後まで事態の打開に努めた。横山が希望を抱いていたのは日米了解案を基礎に日米交渉を行うことであった。しかしこの了解案は外務大臣・松岡洋右の拒否にあい、結局真珠湾攻撃を迎えることとなった。 戦後この日米了解案はアメリカの謀略ではないかとの指摘を受けたが、横山は否定的である。理由としてアメリカは当時日本に侵攻する準備ができてなかったこと等を挙げている。 なお、開戦直前にはかねてより親しかったニューヨーク在住の人形店店主ベルバレー・ディッキンソンをスパイとして雇用している。彼女は1944年に逮捕されるまでアメリカ海軍の情報を収集し、アルゼンチン経由で日本へと送っていた。
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