駐米公使・駐露公使の時代
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「小村壽太郎」の記事における「駐米公使・駐露公使の時代」の解説
「義和団の乱」も参照 1898年(明治31年)9月13日、駐米公使に任命された小村は、10月22日に日本を出発し、11月9日にサンフランシスコに到着し、ワシントンD.C.に着任したのは11月20日のことであった。小村にとっては18年ぶりのアメリカ合衆国である。当時、日米間には大きな懸案はなく、小村の外交官生活のなかでは比較的平穏な時期であったといえる。ニューヨークに出向いたり、旅行したりする余裕もあったが、小村が熱心に取り組んだのはフランス語の学習であり、とりわけ読書に没頭した。歴史書に親しみ、なかでもアメリカ史にかかわる書籍は大量に読んだ。しかし、基本的に社交を好まない小村は人脈を積極的に広げるということはしなかった。 1900年(明治33年)2月23日、小村はロシア勤務を命ぜられ、4月12日に離米して、途中、ロンドンに寄り、ロシアに到着した5月24日に駐露公使に就任した。ここでも小村はロシア語の学習に努めるが、しかし、駐米公使時代とは異なり、清では1898年に山東省に始まった義和団の活動が華北一帯へと波及するなど、危機的状況がいっそう深刻さを増していた。1900年6月10日、20万人に膨れあがった義和団の勢力が北京に入城、6月、日本公使館書記官杉山彬と駐清ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(英語版)が北京の路上で殺害され、義和団が公使館地域を占領した。こうした状況をみて、6月21日、西太后を中心とする清国政府が連合軍に対し宣戦布告し、戦争に発展した。小村は、日本が列国と共同行動をとり、突出しないことを保持しながらも救援部隊を即刻派遣するよう本国に通告し、ロシアとドイツの日本出兵反対論を封じた。清朝の宣戦布告によって北京籠城戦が始まり、イギリスからの再三の出兵要請に応えて山縣内閣は清国へ軍を派遣した。駐清公使に転じていた西徳二郎は福島安正率いる救援軍が来るまで、公使館に日本人居留者をかくまい、柴五郎らと協力して敵の襲撃から守り、救援軍到着後は自ら陣頭指揮にもあたったという。籠城戦は8月14日まで続いた。 義和団の乱は1900年6月以降は北京をこえて満洲方面にも拡大し、ロシアが1896年の露清密約で敷設権を得た東清鉄道への攻撃もなされ、未だ建設途上の南支線(のちの南満洲鉄道)も被害を受けた。ロシアはこれに即座に反応し、皇帝ニコライ2世が進軍を命令、鉄道を守るため、15万を超える兵士が派遣された。ロシアは7月3日、黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始した。ロシア軍は8月3日にハルビン、8月27日にチチハル、9月28日に遼陽、10月2日に奉天を次々に占領し、約2か月間で満洲全土の要部を制圧した。ロシアの満洲占領に対し、駐露公使の小村と駐韓公使の林権助らは、韓国問題のみをロシアと交渉してきた従来の方針を転換し、満洲問題と韓国問題を不可分のものとして把握したうえで、相互に満洲と韓国の完全確保を認め合う「満韓交換」という方針の採用を考えるようになった。 7月19日、駐韓ロシア公使のアレクサンドル・イワノヴィッチ・パヴロフ(ロシア語版)が、日本の林駐韓公使に対し、韓国で義和団事件のような騒擾が発生した場合に備えて、日露両国による勢力範囲の画定と、勢力範囲内での秩序保全について互いに責任を持つという内容の協定を提案した。駐日ロシア公使のアレクサンドル・イズヴォリスキーも青木周蔵外務大臣に同様の提案をおこなったが、伊藤博文も井上馨もこの提案に対しては好意的であった。小村は、この提案には反対であり、ロシアの満洲占領が西・ローゼン協定で認められた日本の韓国における商工業の優越を脅かすものと考え、7月22日、満韓交換論に基づく意見書を提出し、青木外相の賛意を得た。首相の山縣有朋は、ロシアの満洲占領が既成事実化しつつある状況では小村の意見はロシアの受け付けるところにはならないだろうとの見通しを立て、どちらの意見も斥けた。10月2日にセルゲイ・ウィッテ蔵相と会談した小村は、自らの満洲・韓国勢力範囲分割案を提起したが、ウィッテは韓国の独立維持を脅かすような合意はできないとして、これに反対した。同日、奉天を占領したロシアにとっては、いまさら日本の保証を受けるまでもなかったのである。
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