ロシアの統治、民族意識の高まり
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「エストニアの歴史」の記事における「ロシアの統治、民族意識の高まり」の解説
ロシアの統治下に入ったバルト地方では、1719年から1775年までの間、エストラント(エストニア共和国の北部地域)とリヴラント(旧来のリヴォニア)にそれぞれ総督が置かれ、1775年以降に2つの地域は統轄され、1801年にエストラント、リヴラント、クールラントが一人の総督によって管理される体制が確立された。旧バルト帝国内のスウェーデン色を一掃するため、ロシア帝国はバルト・ドイツ貴族を優遇し、そのためにバルト・ドイツ貴族と土着のエストニア人農民の格差は拡大する。1764年にリヴラント、エストラントを視察したエカチェリーナ2世は現地の農奴の窮状に衝撃を受け、翌1765年に農民の生活改善を総督に命じたが、効果は現れなかった。アレクサンドル1世の皇帝即位後にバルト地方に啓蒙思想が広がり、1802年にエストラント、1804年にリヴラントで農民の財産権が認められた。1816年から1819年にかけてバルト地方ではロシア本国に先駆けて農奴制が廃止されたが農奴解放に対するバルト・ドイツ貴族の抵抗は根強く、農民の権利は制限され、彼らの生活は劇的に改善されなかった。1849年にリヴラント、1858年にエストラントで農民の農地の永年所有権の購入が認められ、自営農民が徐々に現れ始めたものの、彼らは政府からの支援を受けられなかった。農奴解放後は土地を持たない農民が産業化が進む都市部に流入して労働力を形成するようになり、やがて彼らは都市の中産階級としてバルト・ドイツ人が作り上げた都市社会制度に挑戦するようになる。 19世紀前半のアレクサンドル1世の自由化政策によって実施された農奴解放、教育水準の向上、西欧思想との接触は500年以上にわたるバルト・ドイツ貴族の支配に不満を抱いていたエストラント、リヴラントの先住民であるエストニア人、ラトビア人の民族意識を育んでいく。1845年にバルト総督に任命されたエヴゲニー・ゴロヴィンは従来のバルト・ドイツ貴族に宥和的な政策を一転させ、彼らに対して強硬な態度を示した。ロシア国内の汎スラヴ主義者もバルト・ドイツ貴族の特権剥奪を主張し、1840年代からエストラント、リヴラントで非ドイツ化を目的とするロシア正教への改宗運動が開始された。1860年代にエストニア人によるエストニア語の教育施設であるエストニア・アレクサンドル学校が開校し、1869年からエストニア音楽祭が開催される。また、民族意識の高揚に『サカラ』の創刊者であるカール・ロバート・ヤコプソン、詩人フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト、リディア・コイトゥラらの文化人の活動も民族意識の高揚に寄与した。また、バルト・ドイツ人の中にはエストニアの伝統文化、言語、歴史に強い関心を持つ人間がおり、エストニア人の地位向上・利益確保に奔走したバルト・ドイツ人はエストフィルと呼ばれていた。1838年にドルパトに創設されたエストニア学識者協会は構成員の大部分がエストフィルであり、叙事詩『カレヴィポエク』の編集・発表、エストニア語の語彙・文法の収集で成果を残している。 1881年にロシア皇帝に即位したアレクサンドル3世は本格的なロシア化政策を推進し、バルト・ドイツ人の特権だけでなく、エストニア人、ラトビア人の民族運動も制限される。
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