ロシアの秘密警察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 01:08 UTC 版)
「19世紀後半のロシアの革命組織」の記事における「ロシアの秘密警察」の解説
起源は、ピョートル1世に遡り、反対者を弾圧する為に「秘密局」を設立した。息子アレクセイもペトロパヴロフスク要塞にて、拷問・殺害された。エカテリーナ2世の時代には、夫のピョートル3世を殺害。さらに、プガチョフの乱を鎮圧。啓蒙から反動に転じて、秘密裁判所、拷問部屋を設立した。ニコライ1世の時には、デカブリストの乱を鎮圧。のちに、皇帝官房第三部を設立。これ以降、ルイレーエフ、シェフチェンコ、ドストエフスキー、バクーニン、チェルヌイシェフスキー、ピーサレフ、カラコーゾフ、ネチャーエフ、レーニンらが、ペトロパヴロフスク要塞に投獄される。1866年には、被疑者に、1週間も睡眠を与えないという不眠の拷問が行われている。これは、肉体的な拷問が試行錯誤された後での、かなり洗練された拷問である。クロポトキンは自書で、「ロシアの政治は抑圧的であり、それは、暗く、寒く、豊饒な海から遠いという風土と、猜疑心、復讐心の強いロマノフ家の遺伝的特質に原因がある」と述べている。言論弾圧、言いがかりのような逮捕、拘禁、拷問、流刑、死刑は日常風景となる。スパイは全階級に放たれている。知識人は、外国でなければ活動ができないと感じる。これらは、開明化されつつある若い貴族階級の反感を買った。その後アレクサンドル2世は度重なる暗殺事件から、組織を発展させて、ロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)とした。
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