ロシアの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
ロシア・ツァーリ国の東征は、イヴァン4世(雷帝、在位1533-1584)治下から始まる。イヴァン4世は、1552年にカザン・ハン国を併合した後、1554年から「全シベリアの命令者」という称号を用いていた。1555年、シビル・ハン国の使者がモスクワに来て、シベリア全土をツァーリのものとし、外敵から防衛してもらう代わりに徴税代理人の派遣と貢納を望んだ。貢物は黒貂やリスなどの毛皮であった。イヴァン4世はシビル・ハン国に徴税代理人を派遣することはなかった。一方で、カマ川流域のタタール候がロシアへの貢納を表明すると、製塩業者のストロガノフ家に、カマ川とチュソバ川流域地方の所領を与え、この地方の開拓と植民を委託した。この間、1563年にクチュム・ハンがシビル・ハン国を奪い、「シベリア皇帝」を名乗るようになり、モスクワへの貢納を停止、また1572年にはロシア軍の討伐隊がクチュム・ハン軍に敗退する。 イヴァン4世は、1574年に、ストロガノフ家に軍事活動を許可した。1581年、ストロガノフ家はイェルマークを隊長に約800人のコサック部隊をシビル・ハン国へ遠征させた。 ロシアのシベリア征服は、イェルマークらがトボル河畔の町イスケル、あるいはカシュルィク(別名シビル)を占領した、この1581年に始まったと言われる。シビルは、ウラル山脈東方を指す言葉であった。イェルマークのシビル・ハン国への勝利は一時的なもので、その地の支配者クチュム・ハーンに反撃され、イェルマークは1584年にイルティシュ河畔で戦死した。イヴァン4世自身はこの遠征に否定的だった。ストロガノフ家に対して、貢納民がモスクワへの反抗心を起こしたとして非難し、コサックを帰還させるように命じた。 シベリア征服の大きな目的は、地元民からヤサク(貢納)という形で毛皮を徴収することにあった。 1586年には、シベリアからヤサクとして納められた毛皮は、一説にはクロテン20万枚、黒狐1万枚、リス50万枚だったという。17世紀に、 グリゴリー・コトシーヒンはシベリアからの毛皮の収入を60万ルーブルと試算しているが、正確なところは不明である。 シベリアは使節庁の管轄下に置かれ、1637年4月1日(ユリウス暦)に、シベリア庁という独立官庁が設けられた。
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