西欧化政策とロシアの発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「西欧化政策とロシアの発展」の解説
オランダの衰退と英仏抗争の時期には北欧、東欧において新たな勢力が台頭した。ロシアのピョートル1世は、雪と氷に閉ざされたロシアの状況を打破すべく不凍港を求めた。そのために自ら西欧に赴いてオランダの造船所で職工を体験し、200人を越す大視察団を派遣して西欧の科学技術を学び、その科学技術をもとに軍備の増強を行い、南方に進出した。黒海方面ではオスマン帝国を撃破し、1699年にはカルロヴィッツ条約を締結してアゾフ海沿岸一帯を獲得した。 また、1700年から20年におよぶ大北方戦争において、カール12世率いる北欧の強国スウェーデンを破り、1721年ニスタット条約によって現在のエストニア、ラトヴィア、リトアニアといったバルト海沿岸諸国、およびカレリアを獲得し、バルト海域の覇権を掌握、ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトール)となった。なお、この戦争中の1703年にバルト海を臨む地に新都を建設し、1712年には内陸のモスクワからサンクトペテルブルクに遷都した。東方では、1707年にカムチャツカの領有を決め、のちにベーリングを派遣している。 ただし、その一方では、産業の近代化と国家の強大化を推進するための財源確保の必要から、農奴制の強化がはかられていき、この政策は18世紀後半のエカチェリーナ2世の時代にも継続された。
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