西欧派との論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 00:53 UTC 版)
理論的に武装したスラヴ派が登場するのは、その反対者たちである"西欧派" (Западничество)と同じ1840年代である。初めの頃はスラヴ派と西欧派は同じサロンで討論を行い、西欧派のアレクサンドル・ゲルツェンは自分たちとスラブ派の論客アレクセイ・ホミャコーフたちは「二つの顔を持つヤヌス神」、兄弟のようなものと考えていた。ところがスラヴ派がロシア正教を奉じ、科学や分離派に不寛容になり、ロシア皇帝の支配を正当化する姿勢を明確に示すようになると、論争は先鋭になり和解しがたい敵同士となる。
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