製塩業
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ヴェルドールではわずかな量ではあるが塩が生産されていた。塩泉は、レネ川(ドイツ語版、英語版)右岸のシェルルの鉄道橋近くにあった。1629年には dreilöthig Wasser があったことが示されている。これは水1リットルあたり3ロートの塩を含んでいることを意味している。三十年戦争中の厳しい時代にも製塩業は営まれていた。近くには様々な軍勢が利用するレネ川の橋があった。兵士たちは繰り返し製塩所を略奪した。1933年に火災で製塩所が焼失し、残っていた壁も1年後に洪水によって破壊された。塩泉は保持されており、1934年に枝条架装置が設けられた。領主のザッセンドルフ製塩所の塩の専売権のため、この会社が生産した塩を販売することは困難であった。塩は主にブランデンブルク領の外で販売され、十分の一税が課された。塩の十分の一税は、1680年頃の平均で年間40帝国ターラーであった。製塩所は財政難に陥った。同業組合は長い協議の末に、拒否していた継続的な十分の一税の支払い免除と、すでに支払った金の返済を勝ち取った。この工場は1743年に塩の輸出を許された。この際、ザルツゼラー(塩税の徴収者)がヴェルドーラー橋で塩の十分の一税を徴収した。ウナ(ドイツ語版、英語版)産の塩が安価であったため、こうした政策によって製塩所は再び財政難に直面した。クレーフェ=メルキッシャー政府の提案でこの政策は再び撤回された。ヴェルドーラー塩泉の塩分含量は低下して行き、やがて製塩は経済活動として立ちゆかなくなった。18世紀末に製塩は操業を停止した。やがて枝条架装置は倒壊し、塩泉は遅くとも道路建設工事までに埋められた。工場は、耕作地「オプ・デア・ゾアルト・ジュー」にあったが、ここには後にシュミーダグ社の社屋が建設された。ヴェストファーレンにおける工業のパイオニアであるフリードリヒ・ハルクオルト(ドイツ語版、英語版)は、現代風の塩泉浴の設立と営業をヴェルドール住民に呼びかけた。しかし、この提案はメルキッシュ地方の企業家魂に効果はなかった。ゼルター (Sälter または Selter。製塩業者を意味する) という名字がかつての製塩業を今日に伝えている。 堆積物した礫や砂利のアルテナ浄水場の源泉掘り下げ改良工事によって新たな鉱泉が発見された。エルファーリンゲンの下流側シュトールテル付近の、デボン紀の岩盤の様々な場所から塩泉が湧出した。その塩分含量は多くなく、おそらく北のウナ周辺から亀裂を通って、レネタールにまで拡散したものと考えられる。 20世紀中頃に、変人と呼ばれていた人物がヴェルドールの塩泉を再び利用しようと試みた。彼は塩泉を掘削しようとしたが、正しい道をたどっていったと思い込んだそこは見当外れの場所であった。ある日彼は、水に塩の味を感じたと吹聴した。いたずら好きの近所の人が採掘孔に大量の食塩を流し込んだのであった。
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