製墨業者として創業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:37 UTC 版)
創業者である綿谷奈良吉(1868年 - 1947年)は1877年(明治10年)頃から当時有名な製墨業者であった大森徳兵衛の店で墨職人として働き墨作りの技術を磨いた。その後午前4時半から正午まで大森の店で1日分の仕事をした後、自宅で自分の墨を作り他の墨屋の下請けで商品を納めるようになり、この資金をもとに、それまで三条通りの奥に住んでいた家を引き払い内侍原町1番地の藁葺きの家を買い、1902年(明治35年)10月1日に製墨業者として独立した。 奈良吉の長男、綿谷楢太郎(1892年 - 1956年)は小学校3年生から家業を手伝い、墨の生産過程を習得し生産面の責任者となり、二男の仙二郎と四男の伍朗は高等小学校を卒業後に販売面を担当し近くの店を回るようになる。奈良吉は妻コマのアイデアで東京の筆墨卸商平安堂の信用を得、平安堂ブランドの墨を大量に製造し多くの利益を上げることができた。 奈良吉は自社ブランドで墨を販売するために1924年(大正13年)10月に合名会社精昇堂商会を設立。この名は奈良吉自身の命名で「精密な仕事で上昇する」という意味である。このころ精昇堂は全国の学校を訪問し墨を売り込んでいたが、1926年(大正15年)頃、埼玉県の熊谷高等女学校(現:埼玉県立熊谷女子高等学校)の同窓会「呉竹会」にその品質を認められたのが縁で、墨のブランドに「呉竹」という名を使うことを許された。この「呉竹」の原典は明治天皇の和歌「芽生えより直ぐなる心呉竹の伸びよ育め己が心を」に由来する。それ以降「呉竹墨」が主流製品となり、1932年(昭和7年)8月に組織変更により株式会社精昇堂商会(資本金10万円)となり、1940年(昭和15年)6月に社名を株式会社呉竹精昇堂と改めた。 戦後、連合国軍最高司令官総司令部は日本の義務教育における書道の授業を禁止する布告を出す。戦争により衰退気味であった奈良の製墨業界は大きな打撃を受け、約50軒あった製墨業者の半数は転業した。悲観した楢太郎は兵役から戻ってきた2人の息子、綿谷安弘(1920年 - )、綿谷良孝(1923年 - )には家業を継がず他の仕事につくよう勧める。しかしその後、総司令部の方向転換により書道は自由選択科目として復活し文部省の学習指導要領も改められると、1950年(昭和25年)頃から楢太郎も二人の弟や息子たちと事業を再開した。
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