ロシアの脅威とは? わかりやすく解説

ロシアの脅威

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 08:15 UTC 版)

戸田氏教」の記事における「ロシアの脅威」の解説

寛政4年1792年9月3日ロシア帝国使節ラクスマン漂流者である大黒屋光太夫ともない蝦夷地現在の北海道)に来航通商求めてきた。光太夫漂流してイルクーツク流れ着きシベリア総督帰国願い出した拒否され帝都サンクトペテルブルク移送され女帝エカチェリーナ2世謁見した上でこのたび同伴となったとのことであった幕府目付石川忠房派遣し会談させることとなった。翌寛政5年1793年6月27日石川忠房村上大学により、3度目会談をして、老中松平定信により、長崎への回航求めさせた。ロシア側はシベリア総督公文書遭難者引き取り要請してきたが、幕府遭難者受け取りのみ応じたラクスマンらは不本意ながら一部目標達したとして帰国の途についた享和2年1802年2月23日前年ラクスマン使節来航などにともない北方大国ロシア蝦夷地進出徴候がありと判断蝦夷奉行設置して蝦夷地幕府直轄地とし、蝦夷地ロシア進出対応策打った文化元年1804年9月6日肥前国長崎ロシア帝国使節レザノフ漂流民を連れて来航し通交求めてきた。幕府目付遠山景晋をもって意向伝えるべく長崎派遣した。翌文化2年1805年3月7日前年来航し通交求めてきたレザノフに対して日本通商対象は清、朝鮮琉球オランダであること、交易については我が国有用な貨幣失って風俗を乱すものであること、通信国禁としているなどのことを説明し、再び退去させた。この時の対応はラクスマンの折よりも厳しく応じたもので、先年失脚した松平定信政策受け継いだ松平信明罷免されたため、幕閣現状維持派が台頭したことと、交易国を独占せんとしたオランダ工作があったことによるという。レザノフ漂流民を連れて19日退去した。文化3年1806年1月26日幕府日本に来航するようになったロシア船を穏便に退去させるため、文化撫恤令を発布した。これにより幕府は、ロシア船を発見した場合説得して退去させること、必要な場合食糧与えること、決し上陸させないことを申し渡した。ロシア果たし従順に帰国するかはこの折は不透明であったが、幕府対外政策海防から蝦夷地領土化鎖国励行重点化されていくこととなったこうした柔軟策がとられるようになったのは、ロシア側の意向である「もとよりロシア戦争好まず」という一条記述されており、ロシアによる北方進出危機杞憂見た氏教ら幕閣意向大きく作用しているという。

※この「ロシアの脅威」の解説は、「戸田氏教」の解説の一部です。
「ロシアの脅威」を含む「戸田氏教」の記事については、「戸田氏教」の概要を参照ください。

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