ロシアの脅威
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寛政4年(1792年)9月3日、ロシア帝国の使節ラクスマンが漂流者である大黒屋光太夫をともない蝦夷地(現在の北海道)に来航、通商を求めてきた。光太夫が漂流してイルクーツクに流れ着き、シベリア総督に帰国願いを出したが拒否され、帝都サンクトペテルブルクに移送されて女帝エカチェリーナ2世に謁見した上で、このたびの同伴となったとのことであった。幕府は目付石川忠房を派遣し、会談させることとなった。翌寛政5年(1793年)6月27日、石川忠房と村上大学により、3度目の会談をして、老中松平定信により、長崎への回航を求めさせた。ロシア側はシベリア総督の公文書と遭難者引き取りを要請してきたが、幕府は遭難者の受け取りのみ応じた。ラクスマンらは不本意ながら一部目標は達したとして帰国の途についた。享和2年(1802年)2月23日、前年のラクスマンら使節の来航などにともない、北方の大国ロシアに蝦夷地進出の徴候がありと判断、蝦夷奉行を設置して蝦夷地を幕府の直轄地とし、蝦夷地のロシア進出に対応策を打った。 文化元年(1804年)9月6日、肥前国長崎にロシア帝国の使節レザノフが漂流民を連れて来航し、通交を求めてきた。幕府は目付遠山景晋をもって意向を伝えるべく長崎に派遣した。翌文化2年(1805年)3月7日、前年来航し通交を求めてきたレザノフに対して、日本の通商対象は清、朝鮮、琉球、オランダであること、交易については我が国の有用な貨幣を失って、風俗を乱すものであること、通信は国禁としているなどのことを説明し、再び退去させた。この時の対応はラクスマンの折よりも厳しく応じたもので、先年失脚した松平定信の政策を受け継いだ松平信明が罷免されたため、幕閣に現状維持派が台頭したことと、交易国を独占せんとしたオランダの工作があったことによるという。レザノフは漂流民を連れて19日に退去した。文化3年(1806年)1月26日、幕府は日本に来航するようになったロシア船を穏便に退去させるため、文化の撫恤令を発布した。これにより幕府は、ロシア船を発見した場合は説得して退去させること、必要な場合は薪、水、食糧を与えること、決して上陸させないことを申し渡した。ロシアが果たして従順に帰国するかはこの折は不透明であったが、幕府の対外政策は海防から蝦夷地の領土化、鎖国の励行に重点化されていくこととなった。こうした柔軟策がとられるようになったのは、ロシア側の意向である「もとより、ロシアは戦争を好まず」という一条が記述されており、ロシアによる北方進出の危機を杞憂と見た氏教ら幕閣の意向が大きく作用しているという。
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