ドイツとロシアの脅威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「ドイツとロシアの脅威」の解説
一方ヨーロッパ大陸では、皇帝ナポレオン3世率いるフランス帝国と「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク率いるプロイセン王国の緊張が高まっていた。軍拡が戦争の元凶という持論があったグラッドストンは1869年に両国に対して軍備縮小を提案した。しかしこの提案は対仏戦争を欲していたビスマルクによって阻止された。 1870年7月に普仏戦争が勃発した。グラッドストンはこの戦争にあたってロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国と連絡を取り合い、中立の立場をとることを確認しあった。また外相グランヴィル伯爵(死去したクラレンドン伯爵の後任)が普仏両国に対してベルギーの中立を守るよう要請した。 この戦争に敗れたフランスは第二帝政が崩壊して、第三共和政へ移行して弱体化した。一方勝利したプロイセンはドイツ統一を達成して強力なドイツ帝国を樹立するに至った。グラッドストンはプロイセンがフランス領アルザス・ロレーヌ地方を併合したことをキリスト教の精神に反する「貪欲 (Greed)」と看做して強く反発した。外相グランヴィル伯爵が「もう手遅れだ」といって止めるのも聞かず、ビスマルクに手紙を送って「罪深い『貪欲』の発揮をただちに止め、アルザス=ロレーヌ地域を中立化せよ」と要求した。しかしビスマルクは「グラッドストン教授」と呼んで馬鹿にし、相手にしなかった。 さらに普仏戦争でプロイセンに好意的中立の立場をとったロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフもプロイセン勝利に乗じる形でパリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に各国に通告した。これによりイギリスの地中海覇権がロシアに脅かされる恐れが出てきた。グラッドストンは「一方的な行為によって締結国の同意もなく、条約上の義務から免れてはいけない」と主張して、国際会議を提唱し、1870年12月からロンドン会議が開催された。会議自体はドイツの支持を得たロシアの主張が認められるという結果に終わったが、この会議により「全ての締結国が同意しない限り、いかなる国も条約上の義務を免れたり、条約の条項を修正することはできない」とする国際法の原則が確立された。
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