外交と西南戦争とは? わかりやすく解説

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外交と西南戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:43 UTC 版)

黒田清隆」の記事における「外交と西南戦争」の解説

明治6年1873年)の征韓論に際して黒田内治重視立場から西郷らに反対した。明治7年1874年)の台湾出兵に際してロシアの脅威挙げて不可立場をとり、出兵後には清国との全面戦争避けるため速やかに外交交渉に入ることを唱えたこの年ロシアとの交渉にあたって黒田榎本武揚使節推薦して容れられ、榎本特命全権公使として樺太・千島交換条約交渉締結あたった黒田の方は、明治8年1875年)の江華島事件きっかけに、同9年1876年2月朝鮮交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規締結した樺太千島開拓使管轄であるから受理明け渡し黒田職務であった。このとき黒田樺太アイヌ北海道強制移住させた。札幌本庁預かっていた松本十郎は、強制移住反対して辞任した明治10年1877年)に西南戦争起きると、黒田2月海路鹿児島至ってここを確保し、いったん長崎引き上げた3月14日征討参軍任命された。このとき熊本城包囲され北から来る山縣有朋主力軍が解囲戦に苦戦していた。黒田は敵の背後衝くため八代付近に上陸し3月30日から交戦をはじめ、前進続けて4月15日熊本城入った。翌16日山縣合流した当日に自らの辞任請い23日辞令受け取った開拓使黒田育てた屯田兵は、入れ替わり戦線到着し以後戦闘活躍した

※この「外交と西南戦争」の解説は、「黒田清隆」の解説の一部です。
「外交と西南戦争」を含む「黒田清隆」の記事については、「黒田清隆」の概要を参照ください。

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