スターリンとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 13:54 UTC 版)
「イェカチェリーナ・スワニーゼ」の記事における「スターリンとの結婚」の解説
1906年の夏、イェカチェリーナとスターリンは結婚しようと決めていた。この時点で彼女はスターリンの子供を身籠っており、彼女自身がそのことに気付いていたかどうかは不明であるが、歴史学者のスティーヴン・コトキン(Stephen Kotkin)は、これが2人が結婚に至った要因とみている。スターリンの母親、ケテワン・ゲラーゼ(Екатерина Геладзе)と同じく、イェカチェリーナは敬虔なキリスト教徒であり、結婚式は宗教色の強い儀式にしたい、と強く主張した。スターリンは無神論者となっていた(スターリンは神学校で教育を受けていたが、のちに司祭教育を放擲した)が、彼女の言い分を受け入れた。 スターリンは、当時使っていた偽名の一つである「ガリアシュヴィリ」という名前で文書を偽造していたため、2人の結婚を認めてくれる神父を見付けるのは困難であった。モナシェリージェは、最終的に、神学校時代のスターリンの同級生の1人であったキタ・トゥクインヴァレーリを見付け、奉仕活動に励んだ。トゥクインバレーリ神父は、「結婚式は深夜に執り行う」ことを条件に承諾した。1906年7月16日の深夜2時ごろ、スワニーゼ邸の隣にある教会にて、イェカチェリーナとスターリンは結婚式を挙げた。その後、ボリシェヴィーキ内でスターリンを庇護していたミハイル・ツハカヤ(Михаил Цхакая)が「タマダ」(乾杯の音頭を取る。グルジアでの祝宴において重要な人物)を務め、10人の招待客に向けてささやかな晩餐会が開かれた。スターリンは母を結婚式には招待せず、事前にそのこと(結婚式を挙げること)を伝えてすらいなかった。結婚式のあと、1人の警官が建物を訪ねてきたが、スターリンはこの警官に金を払っていたおかげで逮捕されることは無かった。 結婚した場合、国内旅券にその事実を記録するよう法律で義務付けられていたが、イェカチェリーナはそれをやらなかった。帝政ロシアの秘密警察、オフラーナ(Охрана)に追われていたスターリンを守るためであった。イェカチェリーナはボリシェヴィーキを積極的に支援し続け、1906年11月、モスクワからやってきた連絡員をもてなした。ところが、この人物は二重スパイであり、彼が去ったのち、イェカチェリーナは、彼女の従兄弟であるスピリドン・ドヴァリとともに11月13日に逮捕された。イェカチェリーナは投獄され、ドヴァリは爆弾製造の罪で起訴され、死刑を宣告された。イェカチェリーナは6週間の獄中生活を送ったのち、釈放された。彼女の身体が妊娠4ヶ月であるという事情や、姉のアレクサンドラが画室に来ていた客に助けを求めたことでドヴァリは減刑となった。釈放はされたものの、自宅へ帰ることは許されず、警察署長の自宅で2か月間暮らすこととなった。スターリンは頻繁に彼女の元を訪れていたが、警官たちはスターリンには見覚えが無かった。1907年3月18日、イェカチェリーナは息子を出産した。息子は「ヤーコフ」と名付けられた。スターリンは、自分の母と一緒に妻の出産に立ち会った。サイモン・セバーグ・モンテフィオーレによれば、この名前は幼いころのスターリンが母親と一緒に助けたヤコビ・エグナタシュヴィリに敬意を込めて付けたという。スターリンは、ヤーコフ誕生後も仕事を続けていたが、時折息子と遊び、その際には「パッサン」(пацан, 自分の息子に対して親しみを込めた言葉)と呼びかけていた。 ヤーコフ誕生から数か月後、スターリンは1907年に発生したティフリス銀行強盗に関与した。この銀行強盗は怪我人や死者を多数出した大規模なものとなった。スターリンは逮捕を避けるため、家族を連れてアゼルバイジャンの首都、バクーに逃亡した。彼らは、郊外、海に面した「バイル半島にある、天井の低いタタール族の建物」を借りることにした。イェカチェリーナは職探しに出向こうとするも、幼いヤーコフの世話をするのに精一杯であった。
※この「スターリンとの結婚」の解説は、「イェカチェリーナ・スワニーゼ」の解説の一部です。
「スターリンとの結婚」を含む「イェカチェリーナ・スワニーゼ」の記事については、「イェカチェリーナ・スワニーゼ」の概要を参照ください。
- スターリンとの結婚のページへのリンク