スターリンの側近として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 13:38 UTC 版)
「ゲオルギー・マレンコフ」の記事における「スターリンの側近として」の解説
1924年にヨシフ・スターリンの目に留まり、党中央委員会に引き入れられる。1925年、中央委員会組織局で働き、後にスターリン個人の秘書局員となり、1932年2月にその責任者となる。1934年3月に全ソ連邦共産党組織部長となり、1936年8月に始まったスターリンの大粛清にラヴレンチー・ベリヤと共に加担し、その功で1939年3月に第18回党大会で中央委員会委員、党書記局員となり、党幹部要員管理局長として党官僚の人事を統制できるようになり、正式な組織局員となった。 1941年2月には政治局員候補となり、その後ベリヤとは政敵になった。1941年6月に独ソ戦が開始されると、マレンコフはベリヤ、ヴォロシーロフ、モロトフと共にスターリンを議長とする国家防衛委員会の委員となった。この委員会は戦時においてソ連国内の政治・経済を完全に掌握し、マレンコフはソ連の最有力政治家の1人となった。1941年から1943年の間に軍用機の製造監督の任務が与えられた。1943年8月には連邦人民委員会議付属のドイツ軍占領解放地区経済復興委員会議長に就任し、レニングラードを除く既に解放された複数の地域の戦災からの復興に尽力した。 スターリンはマレンコフとベリヤに核ミサイル開発監督の任務を与えた。そして、マレンコフはミサイルプログラムの責任者に任命された。この時マレンコフを補佐したのが、後にブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ政権で国防相を務めることになる、若きロケット科学者のドミトリー・ウスチノフであった。 1944年5月に閣僚会議副議長(副首相)となり、第二次世界大戦後の1946年3月に党政治局員に昇進した。そして党第二書記として党内でスターリンの代理の職務を割り当てられた。しかしマレンコフが監督した航空事業の中で欠陥のある航空機が量産されたことが非難を浴び、1946年3月から8月まで責任を取らされる形で役職から解任された状態となった。これは政敵であったアンドレイ・ジダーノフやベリヤによる追い落とし工作だったが、ジダーノフの失脚によりすぐにスターリンの腹心に戻った。その後ベリヤはマレンコフの傘下に入り、彼らは「レニングラード事件」なるものを捏造し、ジダーノフの同調者を全て強制労働収容所に追放した。
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