スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題とは? わかりやすく解説

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スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)

ウラジーミル・レーニン」の記事における「スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題」の解説

詳細は「グルジア問題」を参照 レーニン健康状態1921年後半までに著しく悪化し聴覚過敏不眠慢性的な頭痛などの症状悩まされるようになった1921年7月、党政治局要求により、モスクワ離れてゴールキの邸宅での1カ月間の静養入ったレーニン自殺考え始め、妻のクルプスカヤスターリン両者自殺用の青酸カリ入手するよう依頼した晩年レーニン治療のため雇われ医師26人にのぼり、多額報酬招かれた彼らの多く外国人だった。一部医師は、病因1918年暗殺未遂から体内に残る銃弾金属の酸化である可能性指摘し1922年4月には銃弾体内から取り除く手術が行われた。1922年5月レーニン最初脳卒中発作起こし一時的な会話能力喪失と右半身麻痺生じたその後はゴールキで療養し7月までにほぼ回復した10月にはモスクワ戻ったが、12月2度目発作起こし、再びゴールキでの静養生活に入った病状悪化していたものの、レーニン政治的動向強い関心持ち続けた1922年6月 - 8月行われた裁判において社会革命党指導者らがソビエト政府への謀反企てたことが認定されると、レーニン有罪となった者たちを処刑するよう要求した(彼らは実際に無期限懲役刑処されたが、のちにスターリン指導下で行われた大粛清によって処刑された)。レーニン帝政時代官僚体制ソビエト・ロシア引き継がれていることに懸念抱いており、晩年には特にその思い強めたレーニン不在の間、スターリンは自らの支持者要職任命するとともに自身レーニンに最も近しい盟友であり、その後継者にふさわしい人物とのイメージを築くことで権力基盤固め始めていた。スターリン1922年12月に党政治局によってレーニン治療計画責任者任命され、彼が他者面会することを監督する役割与えられたが、実際にはこの時期両者の関係悪化した1922年半ばレーニン外国貿易国家独占維持すべきと主張したのに対しスターリンは他のボリシェヴィキ率いてそれに反対することを試みたため、レーニンスターリンに対して次第批判的になった。1922年末にはスターリンクルプスカヤレーニンの妻)を電話での会話中に面罵し、それに激怒したレーニン不快感表した手紙スターリン送りつけるなど、両者には私的な衝突もあった。 レーニンスターリン最大政治的対立は「グルジア問題」をめぐって発生した1921年2月グルジア社会主義ソビエト共和国成立して以来ロシア共産党中央委員会グルジアアゼルバイジャンアルメニアとともにザカフカース連邦として構成しようとする計画進めたのに対しグルジア共産党グルジア独立性主張して抵抗していた。1922年の夏、スターリングルジアをはじめウクライナベラルーシアゼルバイジャンアルメニアの各ソビエト共和国ロシア・ソビエト共和国内の自治共和国」として再編するという「自治化」案を提示したレーニンはこれをスターリンとその支持者らによる大ロシア排外主義表れであると批判し代案としてロシアグルジアなどと共により大きな1つ連邦国家構成することを求めそのような国家名称として「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」を提示したスターリンレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、代案受け入れ同年10月ロシア共産党中央委員会総会ではレーニン案にそった決議通過させた。ただし、スターリンレーニン同意得た上で新国家の名称を「ソビエト社会主義共和国連邦ソビエト連邦)」へと変更させた。1922年12月30日新国家の形成ソビエト大会によって正式に承認されソビエト連邦(以下ソ連)が成立したレーニン病床にあったが、新設されソ連行政府ソ連人民委員会議)の議長任命された。 他方グルジアザカフカーズ連邦通じてソ連加入することになっていたため、グルジア側の反対運動継続した問題がさらに悪化しロシア共産党グリゴリー・オルジョニキーゼ独立派グルジア共産党員殴打する事件が起こると、病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止めオルジョニキーゼその後ろだてとなっていたスターリン非難したレーニングルジアナショナリズム是認しなかったが、それを抑圧するロシア排外主義はより大きな問題であると考えていた。 1922年12月から1923年1月にかけ、レーニン同志ボリシェヴィキ、特にトロツキースターリン個人的資質について論じたいわゆるレーニン遺書英語版ロシア語版)」を口述筆記させた。レーニンはこの文書の中で、スターリン党書記長として不適格であり、その地位から解任されるべきと述べトロツキーについては「現在の党中央委員会において最も有能な男」と評価する一方で自己過信し過度に行政的傾向があることを批判した1923年3月にはトロツキーグルジア問題への取り組み依頼しトロツキー病気理由拒否)、その翌日にはグルジア反対派向けてあなたがたのために覚え書き演説準備中です」という手紙口述した。しかし3月10日発作襲われて右半身麻痺し会話能力と共に筆記能力失った

※この「スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題」の解説は、「ウラジーミル・レーニン」の解説の一部です。
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