スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題」の解説
詳細は「グルジア問題」を参照 レーニンの健康状態は1921年後半までに著しく悪化し、聴覚過敏や不眠、慢性的な頭痛などの症状に悩まされるようになった。1921年7月、党政治局の要求により、モスクワを離れてゴールキの邸宅での1カ月間の静養に入った。レーニンは自殺を考え始め、妻のクルプスカヤとスターリンの両者に自殺用の青酸カリを入手するよう依頼した。晩年のレーニンの治療のため雇われた医師は26人にのぼり、多額の報酬で招かれた彼らの多くは外国人だった。一部の医師は、病因が1918年の暗殺未遂から体内に残る銃弾の金属の酸化である可能性を指摘し、1922年4月には銃弾を体内から取り除く手術が行われた。1922年5月、レーニンは最初の脳卒中発作を起こし、一時的な会話能力の喪失と右半身の麻痺を生じた。その後はゴールキで療養し、7月までにほぼ回復した。10月にはモスクワに戻ったが、12月に2度目の発作を起こし、再びゴールキでの静養生活に入った。 病状は悪化していたものの、レーニンは政治的動向に強い関心を持ち続けた。1922年6月 - 8月に行われた裁判において社会革命党の指導者らがソビエト政府への謀反を企てたことが認定されると、レーニンは有罪となった者たちを処刑するよう要求した(彼らは実際には無期限の懲役刑に処されたが、のちにスターリンの指導下で行われた大粛清によって処刑された)。レーニンは帝政時代の官僚体制がソビエト・ロシアに引き継がれていることに懸念を抱いており、晩年には特にその思いを強めた。 レーニンが不在の間、スターリンは自らの支持者を要職に任命するとともに、自身はレーニンに最も近しい盟友であり、その後継者にふさわしい人物とのイメージを築くことで権力基盤を固め始めていた。スターリンは1922年12月に党政治局によってレーニンの治療計画の責任者に任命され、彼が他者と面会することを監督する役割を与えられたが、実際にはこの時期に両者の関係は悪化した。1922年の半ば、レーニンが外国貿易の国家独占を維持すべきと主張したのに対し、スターリンは他のボリシェヴィキを率いてそれに反対することを試みたため、レーニンはスターリンに対して次第に批判的になった。1922年末にはスターリンがクルプスカヤ(レーニンの妻)を電話での会話中に面罵し、それに激怒したレーニンが不快感を表した手紙をスターリンに送りつけるなど、両者には私的な衝突もあった。 レーニンとスターリンの最大の政治的対立は「グルジア問題」をめぐって発生した。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国が成立して以来、ロシア共産党中央委員会がグルジアをアゼルバイジャン、アルメニアとともにザカフカース連邦として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。1922年の夏、スターリンはグルジアをはじめウクライナ、ベラルーシ、アゼルバイジャン、アルメニアの各ソビエト共和国をロシア・ソビエト共和国内の「自治共和国」として再編するという「自治化」案を提示した。レーニンはこれをスターリンとその支持者らによる大ロシア排外主義の表れであると批判し、代案としてロシアがグルジアなどと共により大きな1つの連邦国家を構成することを求め、そのような国家の名称として「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」を提示した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、代案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニン案にそった決議を通過させた。ただし、スターリンはレーニンの同意を得た上で新国家の名称を「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦)」へと変更させた。1922年12月30日、新国家の形成がソビエト大会によって正式に承認され、ソビエト連邦(以下ソ連)が成立した。レーニンは病床にあったが、新設されたソ連の行政府(ソ連人民委員会議)の議長に任命された。 他方、グルジアはザカフカーズ連邦を通じてソ連に加入することになっていたため、グルジア側の反対運動は継続した。問題がさらに悪化し、ロシア共産党のグリゴリー・オルジョニキーゼが独立派のグルジア共産党員を殴打する事件が起こると、病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。レーニンはグルジアのナショナリズムを是認しなかったが、それを抑圧する大ロシア排外主義はより大きな問題であると考えていた。 1922年12月から1923年1月にかけ、レーニンは同志のボリシェヴィキ、特にトロツキーとスターリンの個人的資質について論じた、いわゆる「レーニンの遺書(英語版、ロシア語版)」を口述筆記させた。レーニンはこの文書の中で、スターリンは党書記長として不適格であり、その地位から解任されるべきと述べ、トロツキーについては「現在の党中央委員会において最も有能な男」と評価する一方で、自己を過信し、過度に行政的な傾向があることを批判した。1923年3月にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、その翌日にはグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし3月10日に発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を失った。
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