スターリンによる侵攻容認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)
「朝鮮戦争」の記事における「スターリンによる侵攻容認」の解説
これらの状況の変化を受け、1949年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永は、韓国への侵攻をはやり、「南朝鮮には今もアメリカ軍がいます。ソビエトの援助が必要です」と支援を要請するが、スターリンは「援助はできる。だが今は、用心する必要がある」と慎重な姿勢を見せた。スターリンは、当時唯一の核保有国だったアメリカとの全面戦争を恐れていた。しかし、諦めきれない金日成は「もし今、攻撃を行わなければ、私は朝鮮人民の信頼と支持を失うばかりか、祖国統一のチャンスまで逃してしまいます。我が軍は2週間、長くても2か月以内に朝鮮全土を制圧することができます」などとソ連に繰り返し支援を要請し続けた。 金日成の要求に応じなかったスターリンだが、会談の1年後に態度が豹変し、戦争に前のめりとなる。スターリンの電報には「このような大事業には、大がかりな準備が必要だ。助ける用意はできている」とあり、スターリンが戦争に前のめりとなった理由として、ソ連が1949年8月に原子爆弾の開発に成功し、核保有国となったことで、アメリカに対抗する自信を深めたことがある。さらに、中国東北部に位置する東洋屈指の軍港である旅順港は、太平洋につながる戦略上の要衝であるが、ソ連は第二次世界大戦のあとに旅順港を支配しており、中国は返還要求を行ったがスターリンは強く抵抗し、旅順を手放さないための策略を考え、最終的にまとまった中ソ友好同盟相互援助条約には「両国が戦争に巻き込まれそうになった場合、ソビエトは引き続き、旅順港を使用できる」という条項が加えられた。華東師範大学の沈志華(中国語版)は、中ソ友好同盟相互援助条約が朝鮮半島に緊張をもたらした一因と考えており、「この協定によって、極東地域で緊張が高まればソビエトは引き続き旅順を支配できるようになりました。スターリンは北朝鮮に戦争をけしかけることで、自らの野望を実現しようとしたのです」と述べている。 また、金日成の働きかけ(電報の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認。同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。また12月にはモスクワで、T-34戦車数百輛をはじめ大量のソ連製火器の供与、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などの協定が結ばれた。 これを受けて中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。
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