スターリンによる「上からの革命」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 08:46 UTC 版)
「ソビエト連邦における農業集団化」の記事における「スターリンによる「上からの革命」」の解説
1921年1月には、燃料危機、運輸危機、食糧難が連鎖的に発生し、3月にはクロンシュタットの反乱も起きた。また、共産党政権内部でも、党内の民主化を求める声があがり、党の中央集権制は崩壊寸前になっていた。1921年3月の第10回共産党大会では、穀物の国家専売制と割り当て徴発制を廃止し、現物税制度が導入され、農民が納税後に手元に残った農産物を自由に販売できるようになるとされた。 しかし、旱魃に対応するなか、党指導部は党員が過剰であるとの理由で党員をふるいにかける「党の総粛清」を開始し、古参党員をのぞく内戦期に入党したものが除名された。党歴の長さに応じて地位とヒエラルヒーがつくられ、古参党員による寡頭支配が成立し、これ以降、入党は厳しく制限された。1922年4月、スターリンが書記長に就任。1922年には社会革命党(エスエル党員)を被告とした社会革命党裁判(英語版)が行われ、死刑判決を受けた。共産党にとっては農民は潜在的には「敵」(反革命分子)とみなされていた。 1920年代-1930年代のスターリンによる一元的支配の強化、5か年計画、農業集団化などは「上からの革命」ともいわれる。スターリンによる「上からの革命」で、それまでのネップ時代が終わった。 1923年の恐慌の対策をめぐって党内で対立も生じた。トロツキーは党の民主化を主張したが、1924年1月の第13回共産党協議会でトロツキーは敗北した。スターリンら主流派はソ連体制の正当性を工場労働者からの支持に見出し、労働者の入党キャンペーンを展開した。しかし、共産主義イデオロギーに陶冶することなく入党させることはさらに党内対立を招いた。 1925年の収穫高は戦前の水準に近づき、莫大な量の穀物の輸出の展望が開けたため、スターリン政権は重工業への投資を決定した。1925年5月スターリンは「ロシアにような後進国でも完全な社会主義を実現できる」とする一国社会主義論を唱え、金属工業を現代産業社会の基礎として重視した。これによりスターリンは党内での地位を不動のものとして確立した。
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