スターリンの死後
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「ヴャチェスラフ・モロトフ」の記事における「スターリンの死後」の解説
スターリンの死は新たな政治状況を作り出した。その日のうちにモロトフは外相に復帰した。またポリーナは収容所から解放され、その後も多くの囚人が釈放された。しかし改革に舵を切ったベリヤと対立し、ニキータ・フルシチョフの提案するベリヤの逮捕と処刑に積極的に賛成した。ドミトリー・シェピーロフの回想ではフルシチョフがベリヤの解任をほのめかした際には「除去するだけでいいのか」と答えたという。 しかしその後の集団指導体制の中で、スターリン主義に固執するモロトフら保守派は孤立を深めていった。1956年2月にフルシチョフがスターリン批判を行い、非スターリン化を進めるとモロトフらは反発した。またスターリンの故郷グルジアで暴動が発生し、「モロトフを首相に」というスローガンが唱えられた。またモロトフはユーゴスラビアとの関係正常化に反対してフルシチョフと対立し、9月に外相を解任された。10月にはハンガリーで政変が起こり、ハンガリー動乱が発生した。モロトフは軍事介入に賛成し、融和を唱えるミコヤンと対立した。 1957年6月、幹部会においてゲオルギー・マレンコフ、ラーザリ・カガノーヴィチらとともにフルシチョフ解任の動議を提出した。しかし書記局と軍の支持を得ていたフルシチョフは中央委員会で逆襲を行った。モロトフら反フルシチョフ派は「反党グループ」であるとして政治局員から解任され、モロトフ自身は駐モンゴル大使に左遷された(反党グループ事件)。この動議は反党グループと呼ばれた人々も賛成票を投じざるを得なかったが、モロトフは棄権した。しかし反対派の多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。 その後、中ソ対立でモンゴルの重要性が高まると、モロトフは1960年に国際原子力機関ソ連代表に左遷された。しかしフルシチョフに体制批判の書簡を送ったことで、1961年10月の党大会で「モロトフとその同類の頑迷派」は激しく批判された。モロトフは共産党から除名され、年金生活に入った。
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スターリンの死後
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「スヴェトラーナ・アリルーエワ」の記事における「スターリンの死後」の解説
1953年3月5日に父スターリンが死ぬと、スヴェトラーナは、母の結婚前の姓を名乗り、教師及び翻訳の仕事をした。彼女は、米国史の教養があり、英語も学んでいたが、その時点では、それを用いる機会はほとんどなかった。スヴェトラーナは、党員であり、その生まれを基礎として、最高レベルの政府関係者との関係を保ち、ノーメンクラトゥーラの特権を享受した。彼女は自分の子供たちの世話のために働くのを辞めたのち、自分自身の扶養のために年金を受け取った。 1963年、扁桃腺で入院していたスヴェトラーナは、モスクワを訪れていたインド共産党員のブラジェシュ・シン(Brajesh Singh)と出会う。彼はおとなしい態度の理想主義者であったが、深刻な気管支拡張症と肺気腫を患っていた。2人は黒海近くのソチで病気の回復に努めながら関係を結び、絆を深めた。シンは1965年にモスクワに戻り、翻訳の仕事を始めるが、2人は結婚することを許されなかった。1966年にシンが亡くなると、スヴェトラーナは、ガンジス川に彼の骨を蒔くためにインドへ向かうことを許可された。彼女はガンジスの川岸近くのカラカンカール(Kalakankar)の家に住む一家のもとで2ヶ月間滞在し、地元の風習に馴染んだ。彼女はインタビューで、2人は結婚を公式に許されない状態であったが、自分の夫としてシンに接したという。
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スターリンの死後
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「ソビエト連邦における強制移送」の記事における「スターリンの死後」の解説
1956年2月、ソ連第3代最高指導者のニキータ・フルシチョフよる秘密報告「個人崇拝とその結果について」において強制移送がレーニン主義の原則に反するとし、次のように非難した: 「 なおさら残忍なのは、ソビエト連邦の原則であるレーニン主義に反し、スターリンが発起した法令である。全国のあらゆる場所の出身地からの大規模な追放について言及しよう... この移送行為はいかなる軍事的な配慮によって支持された者でもなかったのである。というのも、既に1943年末には前線に安定な突破口をつくることができたが、 すべてのカラチャイ人を住処から追放する決定が下され、実行された。同時期の1943年12月末にはカルムイク自治ソビエト社会主義共和国の全住民が同じ運命となった。3月にはすべてのチェチェン人やイングーシ人が追放され、チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国は廃止された。1944年4月、全てのバルカル人がカバルダ・バルカル自治ソビエト社会主義共和国から追放され、共和国はカバルダ自治ソビエト社会主義共和国に変名された。 」 1965年付のソ連内務省の秘密報告によれば、1940年から1953年の期間に、モルドバから46,000人、ベラルーシから61,000人、ウクライナから571,000人、リトアニアから119,000人、ラトビアから53,000人、エストニアから33,000人が強制移送されたとされている。
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