バルト地方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)
スウェーデンが支配していたリヴォニア(英語版)(南部エストニアと北部ラトビア)とエストランド(北部エストニア)は大北方戦争(1700年 - 1721年)でのスウェーデンの敗北により、ロシアに併合された。1721年に締結されたニスタット条約により、バルト・ドイツ系貴族には相当程度の自治権が留保され、在地における教育、治安そして司法に関する特権とルーテル教会の地位保証が与えられた。ポーランド・リトアニア領内にあったクールラント・ゼムガレン公国は、1795年の第三次ポーランド分割の際にロシアに併合されている。この地方にはリヴリャンド県(英語版)、エストランド県(英語版)、クルリャンド県(英語版)が置かれ、ラトビア人の居住地のうちラトレガはヴィテプスク県に組み込まれた。 ピョートル1世(在位1682年 - 1725年)は官僚制の整備拡充に際し、外国人専門家とともに沿バルト・ドイツ人貴族を重用しており、女帝アンナ(在位1730年 - 1740年)の治世ではドイツ系貴族が政府の重職を占めて「ドイツ人の支配」とまで言われるようになっている。女帝エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の即位により「ドイツ人の支配」は終わったが、帝政期を通じてバルト・ドイツ人の登用は続き、19世紀前半のニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代には高級官僚の3割から5割がドイツ系であった。 一方、エストニア人とラトビア人の農民はバルト・ドイツ人貴族の農奴となり、その生活は悪化した。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)はバルト地方の農民の権利を一部認めるように命じ、自由主義改革が志向されたアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)初期の治世にはロシア本土に先立って農奴解放が実施されている。もっとも、この農奴解放は不十分なもので農民の生活は改善されず、ドイツ人領主による実質的な土地支配は帝政終焉まで続くことになる。19世紀後半ごろからエストニア人・ラトビア人の間から民族意識が芽生え始め、バルト・ドイツ人に対する反発という形で表出した。1840年代にはバルト・ドイツ人やスウェーデン人に押しつけられた側面もあるルター派信仰を捨てて、正教に改宗する運動が起こっている。リヴリャンド県ではバルト・ドイツ人はラトビア人の地方行政への参加を認めさせられている。 167年におよぶドイツ語行政そして教育が続いた後、1888年と1889年に発せられた法令により、治安および領地における司法権がバルト・ドイツ人貴族から中央政府の官吏に移管された。同じ時期にこの地方の行政機関、高等教育機関にもロシア化政策が推進され、ロシア語が教育言語と規定されて他の言語の使用が制限され、エストニアのタルトゥ大学は「ユリエフ大学」に改称されている。またプロテスタントに対する規制の強化と正教の押しつけも行われた。そして、これらロシア化政策に反発する民族主義運動や社会主義運動がエストニア人・ラトビア人の間で発達することになる。 1905年革命の際にはバルト地方でも大規模なストライキと暴動が発生しており、政府はロシア化政策の緩和を余儀なくされたが、革命が収まると民族主義者に矛先が向けられ弾圧が行われた。1914年に第一次世界大戦が勃発するとバルト地方は対ドイツ戦の前線となった。1917年の二月革命で帝政が瓦解するとエストニア・ラトビアの民族主義者たちは自治権拡大を要求する運動を展開させている。エストニア・ラトビアの民族主義者たちはロシア国家内での自治を目標としていたが、十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握すると危機感を持ち、完全独立に方針転換した。ソビエト政権はこれを容認せず、赤軍が侵攻して独立戦争となった。ロシア革命に介入する連合軍そして休戦後も残留するドイツ軍を巻き込んだ複雑な様相の戦争となったが、1919年末までにエストニア・ラトビアのボリシェヴィキ派とこれを支援する赤軍は敗退した。1920年2月にエストニア、4月にはラトビアがソビエト政権と平和条約を締結し、両国の独立が達成された。
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