バルト地域国の独立 (1918年–1940年)
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1917年にドイツとソ連がブレスト=リトフスク条約を締結した後、ドイツ帝国は占拠領地をオーバー・オスト(英語版)(Ober Ost ドイツ軍東部全軍最高司令官)のもと統治した。 しかしドイツ帝国が第一次世界大戦に敗戦し、ポーランド第二共和国が独立すると、東プロイセンがポーランド回廊によって分断される飛び地となった。1917年にロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、バルト・ドイツ人貴族と亡命ロシア貴族はオーバー・オスト(ドイツ軍東部全軍最高司令官)をもとにしたドイツ軍とバルト連合公国(大リヴォニア公国)を構想したが、ドイツ帝国の敗北とバルト諸国の民族自決によるエストニア・ラトビアの独立により構想は頓挫し、バルト・ドイツ人による中世以来のバルト地域での主導権は喪失することとなった。
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