イリュリア王国とは? わかりやすく解説

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イリュリア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/15 05:33 UTC 版)

イリュリア王国
Königreich Illyrien (ドイツ語)
Ilirsko kraljestvo (スロベニア語)
Regno d'Illiria (イタリア語)
Kraljevina Ilirija (クロアチア語)
1816年 - 1849年


(国旗) (国章)

イリュリア王国の地図(1822年 - 1849年)
公用語 イタリア語
スロベニア語
クロアチア語
ドイツ語
首都 リュブリャナ
国王
1816年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年 フェルディナント1世
1848年 - 1849年 フランツ・ヨーゼフ1世
変遷
設立 1816年8月3日
1848年革命の影響により崩壊 1848年12月8日
通貨 ターラー
現在  オーストリア
クロアチア
イタリア
スロベニア

イリュリア王国(イリュリアおうこく、ドイツ語: Königreich Illyrien)は、オーストリア帝国を構成する領邦の一つであり、1816年から1849年まで存在した[1]

1809年にオーストリアからフランス帝国に割譲されたイリュリアは、第六次対仏大同盟の戦争でオーストリアに再征服され、1816年にウィーン会議の最終文面でオーストリアに復帰した。行政的中心はリュブリャナ、次いでトリエステにあった。

その後1848年革命の帰趨にしたがって、翌49年にカルニオラ公国ケルンテン公国オーストリア沿海州ドイツ語版に分割されたことによって消滅した。

領域

前身であるフランス帝国領イリュリア州の内、サヴァ川以南のクロアチアダルマチアを除く地域、すなわちカルニオラケルンテンアドリア海沿岸のゴリツィア、トリエステ、イストリア半島がイリュリア王国の範囲であった。

現在のオーストリア南部、イタリア北東端、スロベニア中央部及び西部、クロアチア北西部に跨がり、より詳細にはオーストリアのケルンテン州、イタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州東部(旧トリエステ県及び旧ゴリツィア県)、スロベニアのプリモルスカ地方クラニスカ地方コロシュカ地方、クロアチアのイストリア地方北西部(イストラ郡全域、プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡東端を除く地域及び同郡のラブ島を除く諸島部)に相当する。

1822年サヴァ川右岸地域とリエカ[2](現在のプリモリェ=ゴルスキ・コタル郡中部)はハプスブルク君主国のうちハンガリー王冠領に属するクロアチア王国に再統合された。

脚注

  1. ^ Vidic, Marko, ed (2000). “Ilirsko kraljestvo”. Ilustrirana zgodovina Slovencev. Mladinska knjiga. p. 231. ISBN 86-11-15664-1 
  2. ^ Robert A. Kann, A History of the Habsburg Empire, 1526-1918, Univ. of California Press, 1980, p. 284. ISBN 0-520-04206-9

イリュリア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 17:34 UTC 版)

イリュリア」の記事における「イリュリア王国」の解説

イリュリア部族同士はいつも反目し戦い繰り返していた。特定の部族他の部族支配することも多く短命王国何回形成された。紀元前5世紀頃には、イリュリア人勢力範囲は北に広がって、現スロベニアサヴァ川周辺まで伸びた紀元前4世紀にバルデュリス王が現れて、イリュリア王国を強大な力を持つ国に変えた当時のイリュリア王国の主要都市は、リッソス(現アルバニアレジャ)、エピダムノス(別名ドゥラキウム、現アルバニアドゥラス)があげられる紀元前359年、イリュリア王国はマケドニア王国侵攻しマケドニア王ペルディッカス3世倒してマケドニア一部支配下においた。しかし紀元前358年マケドニア王ピリッポス2世アレクサンドロス3世大王)の父)の逆襲遭ってイリュリア王国は敗北しマケドニアオフリド湖までの支配取り戻された。アレクサンドロス大王の時代になってからも、紀元前335年イリュリア族長クレイトスマケドニア抗戦したが、敗退したアレクサンドロスペルシア遠征には、イリュリア部族指導者兵士とが同行している。 紀元前323年アレクサンドロスの死後イリュリアには独立王国再興した紀元前312年イリュリア王グラキアスはエピダムノスからギリシア人追放した紀元前3世紀終わりには、イリュリア王国は、現アルバニア都市シュコドラ近く首都をおき、アルバニア北部モンテネグロヘルツェゴビナ支配するようになった。 ピネス王の摂政として、『イリュリア女王』と称されテウタ統治した紀元前231年から紀元前228年にかけて、イリュリア海賊盛んにアドリア海ローマ商船襲い古代ギリシアポリス周辺国脅威与えた。イリュリア王国は海賊庇護したため、紀元前229年ローマはイリュリア王国に侵攻したローマネレトヴァ川周辺集落侵攻しアドリア海脅かしていた海賊鎮圧し戦争紀元前219年終わった第一次第二次イリュリア戦争)。 紀元前180年ダルマティアがイリュリア王国からの独立宣言したイリュリア最後の王ゲンティウスの時代、イリュリア王国はローマ侵攻され、紀元前168年首都スコドラ(現アルバニアシュコドラ)が陥落した第三次イリュリア戦争)。ゲンティウス王は捕虜となり、紀元前165年ローマに連れ去られた。イリュリアには、まずは、4つローマ同盟国作られ実質的にローマ支配された。後に、この地域は、ローマ直接支配される属州イリュリクムとなった

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「イリュリア王国」を含む「イリュリア」の記事については、「イリュリア」の概要を参照ください。

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