イリュリア王国
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- イリュリア王国
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Königreich Illyrien
Ilirsko kraljestvo
Regno d'Illiria
Kraljevina Ilirija -
← 1816年 - 1849年 →
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→
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(国旗) (国章) -
イリュリア王国の地図(1822年 - 1849年) -
公用語 イタリア語
スロベニア語
クロアチア語
ドイツ語首都 リュブリャナ - 国王
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1816年 - 1835年 フランツ1世 1835年 - 1848年 フェルディナント1世 1848年 - 1849年 フランツ・ヨーゼフ1世 - 変遷
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設立 1816年8月3日 1848年革命の影響により崩壊 1848年12月8日
通貨 ターラー 現在 オーストリア
クロアチア
イタリア
スロベニア
イリュリア王国(イリュリアおうこく、ドイツ語: Königreich Illyrien)は、オーストリア帝国を構成する領邦の一つであり、1816年から1849年まで存在した[1]。
1809年にオーストリアからフランス帝国に割譲されたイリュリアは、第六次対仏大同盟の戦争でオーストリアに再征服され、1816年にウィーン会議の最終文面でオーストリアに復帰した。行政的中心はリュブリャナ、次いでトリエステにあった。
その後1848年革命の帰趨にしたがって、翌49年にカルニオラ公国、ケルンテン公国、 オーストリア沿海州に分割されたことによって消滅した。
領域
前身であるフランス帝国領イリュリア州の内、サヴァ川以南のクロアチアとダルマチアを除く地域、すなわちカルニオラ、ケルンテン、アドリア海沿岸のゴリツィア、トリエステ、イストリア半島がイリュリア王国の範囲であった。
現在のオーストリア南部、イタリア北東端、スロベニア中央部及び西部、クロアチア北西部に跨がり、より詳細にはオーストリアのケルンテン州、イタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州東部(旧トリエステ県及び旧ゴリツィア県)、スロベニアのプリモルスカ地方、クラニスカ地方、コロシュカ地方、クロアチアのイストリア地方北西部(イストラ郡全域、プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡東端を除く地域及び同郡のラブ島を除く諸島部)に相当する。
1822年、サヴァ川右岸地域とリエカ[2](現在のプリモリェ=ゴルスキ・コタル郡中部)はハプスブルク君主国のうちハンガリー王冠領に属するクロアチア王国に再統合された。
脚注
- ^ Vidic, Marko, ed (2000). “Ilirsko kraljestvo”. Ilustrirana zgodovina Slovencev. Mladinska knjiga. p. 231. ISBN 86-11-15664-1
- ^ Robert A. Kann, A History of the Habsburg Empire, 1526-1918, Univ. of California Press, 1980, p. 284. ISBN 0-520-04206-9
イリュリア王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 17:34 UTC 版)
イリュリアの部族同士はいつも反目し、戦いを繰り返していた。特定の部族が他の部族を支配することも多く、短命の王国が何回も形成された。紀元前5世紀頃には、イリュリア人の勢力範囲は北に広がって、現スロベニアのサヴァ川周辺まで伸びた。 紀元前4世紀にバルデュリス王が現れて、イリュリア王国を強大な力を持つ国に変えた。当時のイリュリア王国の主要都市は、リッソス(現アルバニアのレジャ)、エピダムノス(別名ドゥラキウム、現アルバニアのドゥラス)があげられる。 紀元前359年、イリュリア王国はマケドニア王国に侵攻し、マケドニア王ペルディッカス3世を倒してマケドニアの一部を支配下においた。しかし紀元前358年、マケドニア王のピリッポス2世(アレクサンドロス3世(大王)の父)の逆襲に遭ってイリュリア王国は敗北し、マケドニアにオフリド湖までの支配を取り戻された。アレクサンドロス大王の時代になってからも、紀元前335年にイリュリアの族長クレイトスがマケドニアに抗戦したが、敗退した。アレクサンドロスのペルシア遠征には、イリュリア部族の指導者と兵士とが同行している。 紀元前323年のアレクサンドロスの死後、イリュリアには独立王国が再興した。紀元前312年、イリュリア王グラキアスはエピダムノスからギリシア人を追放した。紀元前3世紀の終わりには、イリュリア王国は、現アルバニアの都市シュコドラ近くに首都をおき、アルバニア北部、モンテネグロ、ヘルツェゴビナを支配するようになった。 ピネス王の摂政として、『イリュリアの女王』と称されたテウタが統治した紀元前231年から紀元前228年にかけて、イリュリアの海賊が盛んにアドリア海のローマ商船を襲い、古代ギリシアのポリスや周辺国に脅威を与えた。イリュリア王国は海賊を庇護したため、紀元前229年、ローマはイリュリア王国に侵攻した。ローマは ネレトヴァ川周辺集落に侵攻してアドリア海を脅かしていた海賊を鎮圧し、戦争は紀元前219年に終わった(第一次・第二次イリュリア戦争)。 紀元前180年、ダルマティアがイリュリア王国からの独立を宣言した。イリュリア最後の王ゲンティウスの時代、イリュリア王国はローマに侵攻され、紀元前168年に首都スコドラ(現アルバニアのシュコドラ)が陥落した(第三次イリュリア戦争)。ゲンティウス王は捕虜となり、紀元前165年にローマに連れ去られた。イリュリアには、まずは、4つのローマ同盟国が作られ、実質的にはローマに支配された。後に、この地域は、ローマに直接支配される属州イリュリクムとなった。
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