イリュリアのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 17:34 UTC 版)
6年、属州イリュリクムで大規模な反ローマ暴動が発生したもののティベリウスによって鎮圧された。10年にローマ属州イリュリクムがダルマティアとパンノニアとに分割された。3世紀にはクラウディウス・ゴティクスやアウレリアヌス、ディオクレティアヌス等のイリュリア出身者がローマ皇帝に即位した。 その後は、「イリュリア」や「イリュリア人」という言葉は、一部の人の間を除いて、ほとんど使われなくなったが、イリュリアの名は、ナポレオン・ボナパルトによって蘇った。ナポレオンは、ハプスブルク家の領土だったスロベニア、クロアチア、ダルマチアをフランス帝国に編入し、1809年から1813年までの間、フランス領イリュリア州と名づけて支配した。ウィーン会議によって、ダルマチアを除く地域はオーストリア帝国に復帰し、イリュリア王国として1849年までオーストリア帝国の支配下におかれた。その後に再編されたオーストリア・ハンガリー帝国では、イリュリアの呼び名は使われなかった。 同じ19世紀のヨーロッパの民族運動の中でも、イリュリアという名前が登場した。南スラブ民族の自立運動が起こり、特にクロアチア人の間でイリュリアの再興を求めるイリュリア運動がおこった。ただし、この運動は誤った歴史認識に基づいているとされ、後に衰退した。 演劇や文学では、イリュリアはしばしば半ば空想の国として登場する。その例として、ウィリアム・シェークスピアの『十二夜』、ジャン=ポール・サルトルの『汚れた手』、ロイド・アリグザンダーの『イリリアの冒険』などが挙げられる。
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