イリュリア戦争並びに第二次ポエニ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)
「ローマ海軍」の記事における「イリュリア戦争並びに第二次ポエニ戦争」の解説
第一次ポエニ戦争でローマが勝利したのち、西地中海における影響力はローマがカルタゴを上回った。ローマが地中海において軍事的に優位な立場にあったがために、ローマがカルタゴ領サルディーニャ島・コルシカ島を征服する際、カルタゴはそれを黙認せざるを得なかったという。またこの優位性によりカルタゴの脅威をある程度抑えることができたため、ローマは当時アドリア海で頻発していたイリュリア人海賊の襲撃に対し集中して徹底的に対応することができた。この際イリュリア人との間で発生したイリュリア戦争は、ローマが初めてバルカン半島に進出した出来事であるとみなされている。紀元前229年、ローマの使者を殺害し宣戦布告をしたイリュリア人の女王テウタに対し、元老院は200隻の軍船を派遣し、アドリア海沿岸に広がるギリシア都市(現代のアルバニアなど)を守備していたイリュリア人守備兵らを容易く駆逐した。この10年後、ローマは再びイリュリアに軍を派遣し、イリュリア海軍を再構築してエーゲ海にて海賊行為を繰り返していた イリュリア人指導者デメトリウス(Demetrius of Pharos)に対して征伐を行おうとした。しかしデメトリウスは、ローマがイリュリアに対して影響力を持つことを恐れたマケドニア王ピリッポス5世の支援を受けていた。ローマは再び迅速な作戦をもってイリュリアを圧倒し、イリュリアに保護領を設置したものの、第二次ポエニ戦争がカルタゴとの間に勃発してしまったためアドリア海方面に派遣されていた軍勢は再び北アフリカ方面に方向転換することを余儀なくされ、イリュリアとの戦争は一時中断した。 第二次ポエニ戦争において、ローマが地中海の制海権を確保していたため、カルタゴの偉大な将軍ハンニバルは海上からのイタリア侵攻を避けざるを得ず、代わりに陸上から(つまり北方から)イタリア半島を攻め入る作戦を取った。第一次ポエニ戦争とは異なり、この戦争ではローマ・カルタゴともに、海軍が重要な役目を担うことはあまりなかった。戦争が始まって最初の年に発生した海戦はマルサーラの海戦(218年BC)•エブロ川河口の海戦(217年BC)共にローマの勝利で終わった。数的にはローマ・カルタゴは対等であったものの、その後の戦争期間中、カルタゴはローマから地中海の制海権を奪おうとはしなかった。それゆえにローマ海軍はこの戦争において、主に北アフリカ沿岸部の襲撃、イタリア半島沿岸部の守備、そしてカルタゴ海軍の食料・武器などの輸送船団やハンニバルへの援軍輸送の妨害・阻止などに従事した。また、マケドニア王ピリッポス5世がカルタゴ側として戦争に加勢しないよう目を光らせておくという役割も担っていた 。この戦争においてローマ海軍が唯一参加した大規模な出来事はシュラクサイ包囲戦であった。この包囲戦は、包囲していたローマ軍が、当時シュラクサイに滞在していた天才的な発明家アルキメデスが発明した数々の奇抜な兵器に苦しめられ、2年もの間シュラクサイの港に釘付けにさせられたことで有名である 。その後ローマ海軍はスキピオ・アフリカヌスの軍勢の援軍として160隻の軍船を北アフリカに派遣したが、スキピオの北アフリカにおける軍事作戦は失敗し、その軍船はスキピオの軍勢の撤退作戦に用いられた。この一連の流れの中で、スキピオはカルタゴに対してザマの戦いにて大勝利を飾り、結果ローマはカルタゴと講和する際、カルタゴ海軍の解散を講和条件に加え、カルタゴから海軍力を奪うことに成功した。
※この「イリュリア戦争並びに第二次ポエニ戦争」の解説は、「ローマ海軍」の解説の一部です。
「イリュリア戦争並びに第二次ポエニ戦争」を含む「ローマ海軍」の記事については、「ローマ海軍」の概要を参照ください。
- イリュリア戦争並びに第二次ポエニ戦争のページへのリンク