ローマの勝利とは? わかりやすく解説

ローマの勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/02 01:35 UTC 版)

ローマ・ヘルニキ戦争」の記事における「ローマの勝利」の解説

リウィウスはヘルニキとの戦いのその後に関してはあまり多く記述していない。ほぼ同時期に発生していたガリアとの戦争により関心移しているためである。紀元前361年ローマの両執政官はヘルニキ領に侵攻した。これに野戦抵抗しようとした敵軍はおらずローマ軍はフェレンティヌム(現在のフェレンティーノ)を攻撃し、これを占領した紀元前360年執政官マルクス・ファビウス・アンブストゥスがヘルニキとの戦争指揮を執った。アンブストゥスはいくつかの小さな戦い勝利し続いてヘルニキは全兵力挑んできたがこれにも勝利した。この勝利のため、アンブストゥスは小凱旋式実施した紀元前358年執政官ガイウス・プラウティウス・プロクルスがヘルニキとの戦争担当したまた、新たなトリブス選挙区)であるポンプティヌス・トリブスとプブリリウス・トリブスがこの年設立されている。凱旋式のファスティには、紀元前361年執政官ガイウス・スルピキウス・ペティクス凱旋式紀元前360年9月5日のアンブストゥスの小凱旋式紀元前358年5月15日プロクルス凱旋式記録されている。 リウィウスが言う、アンブストゥスがいくつかの小さな勝利を得た後に大勝利得たとするのが創作であるとしても(より詳細原資料があるのかもしれないが)、ローマの勝利は歴史的に見て事実である。 紀元前358年ラティウムガリア侵攻対処するためにローマとの同盟更新したガリア対す恐怖はヘルニキにも影響与えローマとの新し講和条約締結した。おそらく、以前同盟関係よりはヘルニキに不利な内容であった思われる。フェレンティヌムは紀元前306年段階独立市表記されていることから、それまで何れか時点でヘルニキに戻されたことになるが、おそらくは条約締結の際のことであろう紀元前358年には新しトリブス二つ設立されているが、ポンプティヌス・トリブスがポンプティヌス地域設立されたことは明らかであり、すなわちこの地域がウォルキ領からローマ領土になっていたことを意味する。プブリリウス・トリブスが設立された場所は明らかではない。現代の歴史家にはこれが旧ヘルニキ領に設立され考えるものが多いが、旧ウォルスキ領であった可能性もある。

※この「ローマの勝利」の解説は、「ローマ・ヘルニキ戦争」の解説の一部です。
「ローマの勝利」を含む「ローマ・ヘルニキ戦争」の記事については、「ローマ・ヘルニキ戦争」の概要を参照ください。

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