古代の記録
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「古代の記録」の解説
リウィウス、プルタルコス、ディオドロスは、ウォルスキに対する作戦に関して概ね同一の記述を行っているが、プルタルコスの記述が最も詳細である。プルタルコスとディオドロスは、ローマ軍は複数の執政武官(執政官に代わって置かれたプレブスも就任可能な職)率いられ、マルキウス山の近くに野営地を設営したが、ウォルスキ軍に攻撃されたとする。 複数の敵に対処するため、ローマはマルクス・フリウス・カミッルスを独裁官(ディクタトル)に任命した。 プルタルコスによると、カミッルスは新たな軍を編成した。そこには兵となるには高齢に過ぎるものも含まれてたが、ウォルスキ軍を避けるようにマルキウス山を迂回して行軍し、敵軍の背後に出た。そこでウォルスキ軍の松明によって敵軍の存在を察知した。敵軍を包囲したローマ軍は攻撃準備をした。両側から攻撃されることを恐れたウォルスキ軍は野営地に撤退し、防備を強化した。日の出のときに山から強風が吹き降ろすことを知っていたカミッルスは、一部の部隊に反対側から陽動攻撃を行うように命令し、彼自身は残りの兵を率いて夜明けと共に敵軍野営地に放火した。強風にあおられて、火は野営地を焼き尽くした。殆どのウォルスキ兵は焼死するか、あるいはローマ軍に絶望的な突撃を敢行して戦死した。 ディオドロスによると、カミッルスは夜を徹して行軍した。夜明けと共にカミッルスは敵軍の背後から攻撃を行い、また野営地も攻撃させた。野営地にいた兵は出撃した。両面から攻撃されたウォルスキ軍は虐殺された。リウィウスは執政武官の敗北のことは記載していないが、カミッルスが独裁官に任命されたことを知ると、ウォルスキ軍はラヌウィウム近くの(en)マエキウムの野営地に障害物を置いて防御を強化した。カミッルスはこの障害物に火を放ち、ウォルスキ軍を混乱に陥れた。その混乱をついてローマ軍は野営地に突撃し、大きな抵抗も無くウォルウキ軍を一掃した。カミッルスはウォルスキが降伏するまで、その領土を略奪した。 古代の資料は、その後カミッルスがアエクイ、さらにストリウム(現在のストリ)近くでエトルリア軍に勝利したことを伝える。リウィウスは戦利品の詳細まで記載している。3つの敵軍に勝利したカミッルスはローマに戻って凱旋式を実施した。エトルリア兵捕虜は、奴隷として売却された。その代金は、まずローマの既婚婦人達がガリアへの身代金として提供した私財の補償用に使われたが、残りでカミルスの名を刻んだ3個の杯が作られ、ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿のユーノー像の前に置かれた。
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「古代の記録」の解説
この間数年間に関しては、リウィウスが記しているのみである。それによると、紀元前388年に護民官がポンプティヌス地域の分割を提案したが、プレブスからの支持をほとんど得ることが出来なかった。紀元前387年にも護民官リキウス・シキニウスが同様の提案を行ったが、エトルリアが戦争の準備を開始したとの報告がローマに届いたため、うやむやとなった。翌年にはアンティウム軍がポンプティヌス地域に侵入し、ラティウムもこれを支援するための兵を送ったとの報告がローマに届いた。この年の執政武官6人の1人に、紀元前389年に独裁官を務めたカミッルスが含まれていたが、これはエトルリアとの戦争を想定してのものであった。カミッルスは独裁官であるかのように行動した。別の執政武官プウリウス・ウァレリウス・ポティトゥス・ポプリコラを同僚に指名して、ウォルスキとの戦争を指揮した。残りの4人の執政武官はローマの防衛と内政を担当した。 カミッルスのローマ軍とアンティウム軍はサトゥリクム(en)で激突した。アンティウム軍にはウォルスキ兵に加えて、ラティウム兵とヘルニキ兵も加わっていた。当初は敵軍の規模にローマ軍は怖気づいたが、カミッルスが兵を奮起させる演説を行い、敵軍を攻撃した。兵をさらに勇気付けるため、軍旗を敵軍の戦列内にはためかせた。ウォルスキ軍は撃破され、敗走の間に多くが虐殺されたが、雨のために追撃は中止された。ラティウム兵とヘルニキ兵はウォルスキ軍を見限り、サトゥリクムに逃げ込んだ。カミッルスは通常の包囲戦の準備を開始したが、出撃してきた敵軍がこれを妨害すると、戦術を変えて街を強襲した。軍を指揮させるためにポプリコラを現地に残し、カミッルスはローマに戻ってウォルスキの首都であるアンティウムの攻撃を訴えた。しかし、エトルリアが国境沿いのネペテ(現在のネーピ)とストリウム(現在のストリ)を攻撃した。これに対処するためにローマでは新たな軍を編成し、カミッルスとポプリコラが指揮をとることとなった。執政武官ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥスとルキウス・ホラティウス・プルウィルッスが対ウォルスキ戦を任された。リウィウスはその後カミッルスがネペテとストゥリウムでエトルリア軍に勝利したとする。 紀元前385年、アウルス・コルネリウス・コッススが独裁官となり、マギステル・エクィトゥム(騎兵長官、副司令官)にはティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌスが指名された。これは表面的にはウォルスキとの戦争とラティウムおよびヘルニキを切り離すことを目的とされたが、実際にはマルクス・マンリウス・カピトリヌスが引き起こした問題(元老院が金銀を着服しているとした)に対処するためであった。とは言え、コッススはウォルスキが侵攻したポンプティヌス地域に進軍した。ウォルスキ軍はラティウム軍とヘルニキ軍を併せて強化され、さらにはローマの植民市であるキルケイとウェリトゥラエからの兵も含まれていた。現地に到着したコッススは、翌日の戦いに備えて、敵軍が攻撃してきたら受けて立てと命じた。ローマ兵は計画通り敵の攻撃に耐え、その間にカピトリヌスが率いる騎兵が攻撃、ウォルスキ軍はパニック状態となった。ウォルスキ軍は敗走し、野営地も占領された。コッススは捕虜以外の戦利品を兵士に分配した。ローマに戻ったコッススは凱旋式を実施した。なお、カピトリヌスは王位を狙ったとして翌年に処刑されている。 サトゥリクムには2000人のローマ市民が植民し、それぞれに2.5ユゲラ(1ユゲラは0.25ヘクタール)の土地が分配された。ディオドロスによると、紀元前386年にローマは500人の植民者をサルディニアに送ったとする。これはおそらくサトゥリクムへの植民のことであり、彼自身あるいは彼が参照した資料が書き間違ったものと思われる。
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「古代の記録」の解説
この数年間に関してはリウィウスの記録があるのみである。彼によると、紀元前380年にローマはウェリトゥラエを強襲したとするが、この年の最も重要な出来事は独裁官ティトゥス・クィンクティウス・キンキナトゥスがプラエネステに対する作戦で勝利し、講和を強制したことである。紀元前379年、ウォルスキとの戦争は執政武官プブリウス・マンリウス・カピトリヌスとグナエウス・マンリウス・ウルソが担当することとなった。その人気と家柄のためであったが、間違った人選であることが分かった。両司令官は、十分な偵察を行わずに食料調達部隊を送り出したが、敵のスパイはこの動きを報告しており、食料調達部隊は待ち伏せにあってしまった。同時にウォルスキ軍はローマ軍野営地も攻撃した。この敗北にローマでは最初独裁官の任命が決定されたが、やがてウォルスキ軍の追撃がないことが判明したため、ローマ軍をウォルスキ領から撤退させるに留めた。セティア(現在のセッツェ)を強化するために、新しい植民者も送られた。翌紀元前378年、ウォルスキはあらゆる方向からローマ領内に侵入し、略奪を行った。しかしローマでは、戦争税は戦争が終わるまで徴収せず、負債に関する訴訟を行わないことにパトリキが合意しない限り、護民官はプレブスの徴兵には応じないとした。この内部の混乱の影響を避けるため、ローマは軍を二つに分けた。一つはスプリウス・フリイス・メドゥリアヌスとマルクス・ホラティウス・プルウィリウスが指揮してアンティウムと海沿いに進軍し、もう一つはクィントゥス・セルウィリウス・フィデナスとルキウス・ゲガニウス・マケリヌスが指揮してエケトゥラ(en)と山岳部に進軍した。ウォルスキを戦闘に巻き込もうと、ローマ軍はウォルスキの郊外を略奪した。いくつかの村を焼き収穫物を破壊した後で、両軍共に戦利品を持ってローマに戻った。 リウィウスによると、紀元前377年にウォルスキとラティウムは同盟し、サトゥリクム近くに布陣した。執政武官プブリウス・ウァレリウス・ポティトゥス・ポプリコラ(紀元前386年のカミッルスと共にウォルスキと戦った人物)とルキウス・アエメリウス・マメルキヌスが率いるローマ軍がこれに向かった。両軍の初日の戦闘は暴風雨によって中断された。二日目の戦闘では、ローマ軍の戦術を熟知しているラティウム軍は、ローマ軍の攻撃をしばらく持ちこたえていたが、ローマ軍騎兵が戦列を崩し、さらに歩兵が新たな攻撃を行って敗走させた。ウォルスキ軍とラティウム軍はアンティウムにまで退却した。ローマ軍は追撃したが、アンティウムを攻略する装備は持っていなかった。ラティウム軍は継戦を望んだが、アンティウムは講和を望んだ、結果、ラティウム軍は街を離れアンティウムはローマに降伏した。怒ったラティウム軍はサトゥリクムに火をつけ、マテル・マトゥタ(en)神殿以外を破壊した - もしも神殿に放火した場合はひどい罰が下るとの声がしたためとされる。
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「古代の記録」の解説
リウィウスは紀元前376年から紀元前367年にかけての記述を内政問題を中心にしている。最終的にはリキニウス・セクスティウス法により、執政官の一人をプレブスから選ぶことなり、執政武官は廃止され執政官が復活することとなった。この間の外交問題に関しては参照程度に触れられているのみである。リウィウスは紀元前370年にウェリトゥラエ軍がローマ領土に侵入し、トゥスクルムを攻撃したとする。ローマから救援軍が派遣されて包囲を解かせ、さらにウェリトゥラエを包囲した。この包囲戦は紀元前367年にローマの勝利に終わったが、その間の特筆すべき事項は何も記されていない。プルタルコスによると、ウェリトゥラエは紀元前367年に、5度目の独裁官を務めたカミッルスに降伏したが、激しい戦いは無かったとする。ウェルトゥラエの占領はカミッルスに関する最後の記録である。おそらく紀元前365年にローマで流行した疫病で死亡した可能性がある。
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アメストリスはオタネス(英語版)(ウターナ)の娘である。オタネスは紀元前522年にアケメネス朝の王位を僭称したとされるマグ(マギ、マゴス僧)の偽スメルディス(ガウマータ)を殺害した7人の貴族の1人であった。その後、ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世、大王)が統治を開始した。ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、オタネスは王家と婚姻関係を持つ栄誉を与えられた。ダレイオスはオタネスの娘パイデュメ(ファイデュメ)と結婚し、一方のオタネスはダレイオス1世の姉妹と結婚した。彼女がアメストリスを生んだ。紀元前486年にダレイオス1世が死んだ時、アメストリスは王太子クセルクセス1世と結婚していた。 彼女は古代ギリシアの歴史家から低い評価を受けていた。 ヘロドトスはアメストリスを残虐な独裁者として描く。 「私の聞き知っているところでは、クセルクセスの妃アメストリスも年老いてから、名門のペルシア人の子供十四人を生き埋めにし、地下にあると伝えられている神に謝意を表したということであるから、人間を生き埋めにするのはペルシアの風習なのであろう。ヘロドトス『歴史』巻7§114」 既知の文献や記録は、ペルシアの宗教では人身御供は許容されていなかったことを示すため、このストーリーの出所は不明である。当時についての大部分の記録はギリシアのものであり、ギリシアがペルシアに対して敵対者として関与していたため、記録の全てが正確ではないであろう。
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古代の記録
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この伝説の叙述記録は晋王朝まで遡ることができ、裴淵の随筆『広州記』に見られる。北宋の太平興国8年(983年)の『太平御覧』もまた『広州記』の引用から「広州庁舎にはヤギ5頭の絵がある。これは高固が楚の大臣だった頃に5頭のヤギが穀物を携えてやって来たことから、広大な平野を持つ広州にとっての縁起物として、人々がそのヤギを描いたものだ」と言及している。また唐代の『郡国志』にも「三国時代後期の広州に仙人5人が5色のヤギに乗ってやって来たので、幸運を呼ぶとして今では人々がその絵を描いている」との言及がある。984年に書かれた『太平寰宇記』は、唐代の『続南越志』記述に続いて「仙人5人が5色のヤギと稲6粒を携えてやって来たとの古い言い伝えがある」と言及している。着目すべきは、最も古い晋代の話では仙人たちが出てこない点である。彼らが後世の話で登場して、5頭のヤギに代わって(民衆に稲を渡す)英雄になった理由は、南北朝時代に道教が盛んになったためだと考えられている。 唐代以降に「五羊」「羊城」が徐々に古代広州市の愛称となったことからも、同伝説が現地の人々に与えた影響の大きさが見て取れる。唐代の奇譚じみた伝説によると、その当時人々は広州にあった城隍廟でヤギ5頭を生贄に捧げていた。最も古い同様の慣習が南漢にあり、当時の人々が仙人達を祀るために「五仙観」という施設(道観)を建てた。北宋の経略使の張励は『広州重修五仙祠記』にウーヤン伝説をくまなく記録し、五仙観建造の目的が仙人5人が到着した場所を記憶に残すためだと説明した。この記録書で、張励は『南越嶺表遊記』や『図経』を引用しつつ、以下のように物語を詳細に創作した。「初めから仙人は5人おり、それぞれが茎6本の稲穂を持ち、5頭のヤギに乗って到着した。彼らの服とヤギはどれも違う色で、全部合わせて5色だった。人々に稲穂を渡した後、仙人達は飛び去り、ヤギは石像になった。そこで、広州の人達は仙人達が到着した場所に寺院を建てたのである」。 伝説の具体的年代に関しては、書物によって様々である。『太平御覧』では2つの説を挙げており、楚の時代および三国時代に呉の滕脩が広州の役人に就いた時とされる。『重修五仙祀記』では3つの説があり、漢代の趙佗時代、三国時代の呉の滕脩時代、晋代の郭璞が城を移した時代とされる。ところが、明代末期から清代初頭に屈大均が著した『広東新語』は、この物語が周の夷王の時代に起きたと語っている。同書籍にある「五羊石」という話では「周の夷王の時代、南方の海に5人の仙人がおり、それぞれが色の異なる服を着て、彼らのヤギもまた服に応じた色である。それぞれ彼らは6本の茎を束ねた稲穂を持って現れ、人々にそれを預けて「この地に二度と飢餓が起こらないように」と祈願した。これを言い終えると彼らは飛び去り、ヤギは石へと変わった」と書かれている。この話は現代のものと非常に似ており、伝説の重要な要素が全て含まれている。
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古代の記録
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夜空を動く物体として火星は古代エジプトから記録されていた。紀元前2千年紀までに通常の方向から逆向きに移動しているように見える逆行運動が知られていた。火星はラメシアム(英語版)にあるセティ1世の墓の天井や、セネムットの星図(英語版)にも描かれている。後者の星図の方は最古の星図として知られており、紀元前1534年の惑星の位置が記されている。 新バビロニアの時代ではバビロンで位置の観測や惑星の天球上の行動の基礎が作られていった。当時の天文学者は火星が79年間に37回公転することや42周黄道を通ることが分かっていた。また、惑星の予測位置の誤差を少なくするためバビロニア数学が使われた。この技術では天球上の惑星の位置から導き出したわけではなく、火星が昇って来る時間の測定によって得られた。 中国における火星の動きや出現の記録は周が興る前から始まり、秦朝までに惑星の合に似た現象が発見された。金星による火星の掩蔽は368年、375年、405年に観測された。惑星の軌道は唐の時代には詳細に分かっていた。 古代ギリシアではメソポタミアの文化から伝来した知識に影響を受け、バビロニアでは火星を戦争と疫病の神であるネルガルに、ギリシアでも戦争の神であるアレースを火星と関連付けた。この時期にはギリシアでは火星への興味があまりなく、著名なヘーシオドスの『仕事と日』にも火星について言及されていない。
※この「古代の記録」の解説は、「火星の観測史」の解説の一部です。
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