古代の論争
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古代には日付と位置付けをめぐり論争があったが、現在は春分の後の満月の次の日曜日(主日)に行われる。 復活大祭がハリストスの死を記念するものかハリストスの復活を祝うものかについて、古代には激しい論争があった。前者はユダヤ暦のニサン14日、後者はその三日後に相当する日を主張した。論争の末、後者が主流となり、4世紀には日曜日に復活祭が行われるようになった。最終的な日付の確定は、325年の第1回ニカイア公会議で行われた。正統信仰教会が東西に分かれた東西教会の分裂のあとも、両教会はこの同じ規定に基づいて復活大祭の日付を決定している。
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古代の論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:40 UTC 版)
小アジアの教会はユダヤ教以来の伝統に従ってニサンの月の14日をパスカ(復活祭)として祝っていたため、平日に祝われることもあった。一方、ローマをはじめ多くの教会ではイエスが復活した日曜日を主イエスの日として優先するため、復活祭(パスカ)も復活の日である「ニサンの月の14日の後の最初の日曜日」に祝う習慣であった。 2世紀にはこの相違が顕在化。154年には小アジアのポリュカルポスとローマのアニケトゥスの間の会談において議論が行われた。170年代にはラオディキアで論争が生じ、190年代にも論争が再燃。ローマのウィクトル1世はエフェソスのポリュクラテスと論争し、日曜日に復活祭を祝わない者に対しては破門も辞さない厳しい態度で臨んだ。こうしたウィクトル1世の強硬な姿勢は全司教(主教)達に歓迎されず、日曜日に復活祭を祝うこと自体には賛同する(小アジア以外の)東方教会の主教達からも、たしなめる意見が相次いだ。 この時、リヨンのエイレナイオスが調停に立った。エイレナイオスは小アジアのスミルナ出身でガリア(リヨン)の司教であり、小アジアの伝統とローマ側の主張の両方をよく理解している人物であった。エウセビオスはエイレナイオスが教会分裂の阻止に果たした役割につき賞賛している。エイレナイオスは他の司教達(主教達)とともにウィクトル1世に対しては強硬姿勢を批判する一方で、小アジアの教会に対して日曜日に復活祭を祝うよう説得に努めた。その結果、ごく一部の小アジアの伝統を維持しようとした分派「十四日教徒」が5世紀頃まで存続した以外は、概ね小アジアの諸教会は他教会と協調するようになっていった。 325年におこなわれた第1ニカイア公会議では全教会で復活祭を同じ日曜日に祝うことを決議した。 ローマとアレクサンドリアの間にも暦法上の相違があり、復活祭の日付も異なることがあったが、だんだんローマはアレクサンドリアの暦法を取り入れるようになった。西方のローマ教会は6世紀までは独自の方法で復活祭を算出していたが、アレクサンドリアの教会の手法を(ローマで用いられていた)ユリウス暦に適応させる方法がディオニュシウス・エクシグウスによって編み出されたことでようやくその決定法を採用することになった。イギリスやフランスなどの各地でも当初はローマ式の方法が採用されていたが、やがてディオニュシウスの方法が採用され、ようやく復活祭の日付がヨーロッパの全キリスト教会で統一されることになった。
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