古代の論争とは? わかりやすく解説

古代の論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 22:02 UTC 版)

復活大祭」の記事における「古代の論争」の解説

古代には日付位置付けをめぐり論争があったが、現在は春分の後の満月次の日曜日主日)に行われる復活大祭ハリストスの死を記念するものかハリストス復活を祝うものかについて、古代には激し論争があった。前者ユダヤ暦ニサン14日後者その三日後に相当する日を主張した論争の末、後者主流となり、4世紀には日曜日復活祭が行われるようになった最終的な日付確定は、325年第1回ニカイア公会議行われた正統信仰教会東西分かれた東西教会の分裂のあとも、両教会はこの同じ規定基づいて復活大祭日付決定している。

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古代の論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:40 UTC 版)

復活日論争」の記事における「古代の論争」の解説

小アジア教会ユダヤ教以来伝統に従ってニサンの月の14日パスカ復活祭)として祝っていたため、平日祝われることもあった。一方ローマをはじめ多く教会ではイエス復活した日曜日を主イエスの日として優先するため、復活祭パスカ)も復活の日である「ニサンの月の14日の後の最初日曜日」に祝う習慣であった2世紀にはこの相違顕在化154年には小アジアポリュカルポスローマアニケトゥスの間の会談において議論が行われた。170年代にはラオディキア論争生じ190年代にも論争再燃ローマウィクトル1世エフェソスポリュクラテス論争し日曜日復活祭祝わないに対して破門辞さない厳し態度臨んだこうしたウィクトル1世強硬な姿勢は全司教主教)達に歓迎されず、日曜日復活祭を祝うこと自体には賛同する小アジア以外の東方教会主教達からも、たしなめる意見相次いだ。 この時、リヨンエイレナイオス調停立ったエイレナイオス小アジアスミルナ出身ガリアリヨン)の司教であり、小アジア伝統ローマ側主張両方をよく理解している人物であったエウセビオスエイレナイオス教会分裂阻止果たした役割につき賞賛している。エイレナイオスは他の司教達(主教達)とともにウィクトル1世に対して強硬姿勢批判する一方で小アジア教会に対して日曜日復活祭を祝うよう説得努めたその結果ごく一部小アジア伝統維持しようとした分派十四日教徒」が5世紀頃まで存続した以外は、概ね小アジアの諸教会は他教会協調するようになっていった。 325年おこなわれた第1ニカイア公会議では全教会で復活祭を同じ日曜日に祝うことを決議したローマアレクサンドリアの間にも暦法上の相違があり、復活祭日付異なることがあったが、だんだんローマアレクサンドリア暦法取り入れようになった西方ローマ教会6世紀までは独自の方法復活祭算出していたが、アレクサンドリア教会の手法を(ローマで用いられていた)ユリウス暦適応させる方法ディオニュシウス・エクシグウスによって編み出されたことでようやくその決定法採用することになったイギリスフランスなどの各地でも当初ローマ式の方法採用されていたが、やがてディオニュシウス方法採用され、ようやく復活祭日付ヨーロッパの全キリスト教会統一されることになった

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