唐の時代
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唐の太宗の時期(626年 - 649年)、玄奘がこの地を訪れたときには姑墨国ではなく、跋禄迦(バールカー)国と呼ばれており、熱心な仏教国となっていた。跋禄迦国には伽藍が数10カ所、僧徒が千余人おり、小乗の説一切有部を学習していたという。 この頃は西突厥の支配下となっており、次第にテュルク化していく。その後は唐が安西都護府を置いて支配したが、吐蕃や回鶻(ウイグル)にも支配され、10世紀後半にはテュルク系イスラム王朝のカラハン朝に支配される。
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唐の時代
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高祖李淵(在位:618年 - 626年)が即位すると、亀茲王の白蘇伐勃駃(中国語版)(そはつほつかい、スヴァルナプシュパ)は唐に遣使を送って入朝した。白蘇伐勃駃はまた、高昌国を出て亀茲国にまで辿り着いた玄奘三蔵を王都に迎え、60日間ほど歓待した。白蘇伐勃駃が死去すると、子の白蘇伐畳(中国語版)(そはつちょう、スヴァルナデーヴァ)が代立し、時健莫賀俟利発(しけん・バガ・イルテベル)と号した。 貞観4年(630年)、白蘇伐畳は遣使を送って馬を献上し、太宗(在位:626年 - 649年)は璽書を賜い、厚く撫慰し、これより朝貢は不絶となるが、西突厥にも臣従した。安西都護の郭孝恪が焉耆国を討伐すると、亀茲国は兵を派遣してこれを援助した。 白蘇伐畳が死に、その弟の白訶黎布失畢(中国語版)(かれいほしつひつ、ハリプシュパ)が代立すると、次第に藩臣の礼を失っていった。 貞観20年(646年)、太宗は左驍衛大将軍の阿史那社爾を遣わして崑山道行軍大総管とし、安西都護の郭孝恪・司農卿の楊弘礼(中国語版)が率いる五将軍と、鉄勒の13部の兵10余万騎を発して亀茲国を討伐した。阿史那社爾は既に西突厥の処月種と処密種を破り、進軍してその北境に急行し、その不意をついて、西突厥所署の焉耆王は城を棄てて遁走し、阿史那社爾は軽騎でこれを追撃し捕えた。亀茲国は大いに震撼し、守将の多くは城を棄てて遁走した。阿史那社爾は磧石に進んで駐屯した。伊州刺史の韓威(中国語版)を遣わし千余騎を率いさせ前鋒とし、右驍衛将軍の曹継叔はこれに次いだ。西の多褐城に至ると、亀茲王と相遇し、その相の那利(なり)と将軍の羯猟顛(けつろうてん)らは、5万の衆がおり、逆に王師を防いだ。韓威は遁走をするふりをしてこれを引きつけ、亀茲王の俟利発は韓威の兵が少ないのを見て、衆を至らせる。韓威は30里も後退すると、曹継叔の軍と合流し、反撃に出てこれを大破した。亀茲王は都城まで退き、阿史那社爾は進軍してこれに迫り、亀茲王が軽騎で遁走したので、遂にその城を陥落させ、郭孝恪にここを守らせた。沙州刺史の蘇海政・尚輦奉御の薛万備(中国語版)を遣わして精騎でこれに迫り、600里行って亀茲王は窘急し、撥換城に退いた。阿史那社爾らは進軍してこれを包囲し、亀茲王及び大将の羯猟顛らを捕えた。その相の那利は免れ、密かに西突厥の衆を招き寄せてその国の兵万余人は郭孝恪を襲撃して殺した。倉部郎中の崔義起(中国語版)は曹継叔、韓威らとこれを撃ち、那利は敗走したが、亀茲人に捕えられる。前後してその大城五所を破り、男女数万を捕虜とした。阿史那社爾はよって亀茲王の弟の葉護(ヤブグ:官名)を立てて王とした。太宗は白訶黎布失畢を左武翊衛中郎将とし、那利以下には官を授けた。また、太宗は安西都護府を亀茲城に移し、郭孝恪を安西都護とし、于闐・疏勒・碎葉を統領させ、これを“四鎮”とした。 永徽元年(650年)、高宗(在位:649年 - 683年)は白訶黎布失畢を右驍衛大将軍とし、那利・羯猟顛とともに本国へ送還し、ふたたび亀茲王としてその余衆を治めさせた。 白訶黎布失畢は唐に入朝した。那利はその妻の阿史那氏と姦通し、亀茲王は我慢できず、左右の者はこれを殺すことを請い、これにより更に嫉み嫌った。使者の言状で、帝は那利を京師に召して捕え、亀茲王を還らせた。羯猟顛は遣使を送って阿史那賀魯に降り、亀茲王はあえて進まず、憂いて死んだ。詔で左屯衛大将軍の楊冑に出兵させて羯猟顛を捕えさせ、その地を亀茲都督府とし、更に子の白素稽(中国語版)(そけい)を立てて亀茲王とし、右驍衛大将軍を授け、都督とした。この年、亀茲等四鎮を棄てて、安西都護府を西州に移し、故に安西を西州都督府とし、左驍衛大将軍兼安西都護の麴智湛(中国語版)を拝して都督とした。 咸亨元年(670年)、吐蕃のガル・ティンリンツェンジュ(チベット語: མགར་ཁྲིང་འབྲིང་བཙན་བྲོད་)が羈縻十八州に侵攻し、于闐を率いて亀茲の撥換城を陥落させ、ここにおいて安西四鎮はすべて吐蕃に占領された。唐は詔で右威衛大将軍の薛仁貴を邏娑道行軍大総管とし、左衛員外大将軍の阿史那道真・左衛将軍の郭待封を副官として、総勢10万の大軍で吐蕃討伐にかかるが、大非川にて唐軍は敗北した。 上元年間(674年 - 676年)、白素稽は銀頗羅・名馬を献上した。 儀鳳年間(676年 - 679年)、吐蕃はふたたび焉耆以西を攻撃し、四鎮は陥落した。 武周の天授3年(692年)、亀茲王の延由跋(中国語版)(えんゆばつ)は唐に入朝。 長寿元年(692年)、武威軍総管の王孝傑(中国語版)・闕啜忠節は吐蕃を大破し、ふたたび亀茲・于闐等四鎮を手に入れ、ふたたび亀茲に安西都護府を置いた。しかし経営は難しく、四鎮を破棄する声もでたが、武則天は許さなかった。 その後安西都護は、武周に田揚名、中宗の時期に郭元振(中国語版)、開元初年に張孝暠・杜暹(中国語版)が就任した。 開元7年(719年)、亀茲王の白莫苾(中国語版)(ばくひつ)が死に、子の白多匝(中国語版)(たそう)が立ち、孝節と改名。 開元10年(722年)、吐蕃が安西四鎮を攻略する。 開元18年(730年)、孝節(多匝)は弟の孝義を遣わして唐に入朝した。 貞元3年(787年)、吐蕃が沙陀族・回鶻(ウイグル)可汗国を攻撃し、北庭と安西は援護が無く遂に陥落した。 開成4年(840年)、回鶻可汗国が崩壊すると、のちに回鶻の残党によって亀茲回鶻(西州亀茲)が建てられた。
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唐の時代
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待詔は、琴棋書画などの技芸の優れた者が皇帝に召し出される翰林院の役職で、唐の玄宗皇帝が713年(開元元年)に囲碁の優れた者である棋待詔を設けた。当時これには、「囲碁十訣」の作者として後世に知られる王積薪や、顧師言、王倚、順宗に重用された王叔文、滑能、新羅人の朴球などがいた。玄宗は、「忘憂清楽集」に鄭観音という者と対局した棋譜が載せられるなど囲碁好きであり、また新羅の聖徳王の葬儀に弔問使節を送った際は、囲碁の強い近衛兵の楊李膺という者を副使節に加えたという。中唐の頃の顧師言は「旧唐書」宣宗本記で、848年(大中2年)に入唐した日本国王子と対局したと記されていて、蘇鶚「杜陽雑編」ではこの王子はたいへん強く、顧は一手で二つのシチョウを防ぐ鎮神頭という妙手によって勝つことが出来たと書かれている。
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