唐の宮室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:53 UTC 版)
唐代の女性が自由であるというイメージは、唐王朝が半世紀にわたって女性によって統治されたことも関係している。則天武后は、高宗の愛人という立場から国家のさまざまな部署を統制し、まず彼の皇后に、そしてのちには彼の後継者の摂政になった。690年には、ついに「武周」という新たな国家の女帝として君臨することを宣言した。他にも、政治的に重要な役割を果たした女性として韋皇后と太平公主がいる。 唐の社会は北朝の伝統を引いており、中央アジアや大草原地帯の遊牧民族と密接に交流していた。彼らの社会では、男性と女性は漢民族に比べれば平等であり、女性たちが法的な議論や政治、そして戦闘に参加していた記録がある。唐の初代皇帝の李淵の娘である平陽昭公主は、唐王朝の創立に寄与し、7万人の兵士を率いて父親の軍事行動に貢献した。加えて、彼らの社会の中では、女性は社会的意識においても強大な地位を占め続けており、女性は強大な霊魂の持ち主としてシャーマン的に家族の運命を司る存在であるとされた。 また、唐代には閨閥(政治的な提携関係を深めるため、他国の支配者の女性親族と婚姻を結ぶこと)の事例が多く見られる。それ以前の王朝とは対照的に、唐代では王朝から送られる王女は皇帝一族の純血の家族の一人であった。ここで、彼女たちは物々交換の道具とされていたわけではなく、唐王朝の大使・外交官としての役割を果たすことが期待されていた。これは文化大使の役割を果たしたこともあり、例えば文成公主はリッチャヴィ朝のブリクティー(英語版)とともに、仏教をチベットにもたらしたことで高い評価を得ている。政治的な外交官として王女が活躍した例としては、回鶻の指導者と婚姻関係を結んだ太和公主(中国語版)が挙げられる。彼女は、夫と死別した824年に、堅昆との対立の最中に二度拉致され、武宗に反乱勢力の指導者を公的に求めるよう嘆願した。その文章は『資治通鑑』に記録されており、女性が外交官としての政治的役割を果たすことが期待されていたと分かる。
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