唐の完全滅亡まで
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唐の中央政府は755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし節度使勢力を抑え込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。 このような状態の中で黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて手心を加えた者があったとも言われている。 黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。 しかしこれにより皇帝はその名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、周の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。 この時期に中央を争っていたのが、開封を中心に山東・河南を支配していた朱全忠と晋陽を中心に山西を支配した李克用である。この他の有力者に、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。 その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。 李克用の軍は真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。「後」の字は後世の歴史家が区別するために付けた。以下全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。
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