唐の完全滅亡までとは? わかりやすく解説

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唐の完全滅亡まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 21:15 UTC 版)

五代十国時代」の記事における「唐の完全滅亡まで」の解説

唐の中央政府755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府統制弱まった。それに乗じた各地節度使勢力自立色を強め自分達の任地を自らの裁量治めるようになり、遠方節度使中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代皇帝達は抑制策考え部分的に成功した。しかし節度使勢力抑え込むために利用した宦官勢力今度は力を持ち政治容喙し皇帝廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。 このような状態の中で黄巣の乱勃発した政府軍堕落し切っており、決し強くない黄巣に対して苦戦し中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場危うくなることを恐れて手心加えた者があったとも言われている。 黄巣軍は長安陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した黄巣軍は長安暴政敷いて長安市民失望買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安回復する実力無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身李克用と、黄巣軍の幹部であった裏切って唐側に付いた温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人奮戦により長安回復される。 しかしこれにより皇帝はその名目利用されるだけの存在成り果てた。この状況は、周の東遷以降春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。 この時期中央争っていたのが、開封中心に山東河南支配していた朱全忠晋陽中心に山西支配した李克用である。この他有力者に、河北支配した劉仁恭や陝西一部支配した李茂貞などがいる。 その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。 李克用の軍は真っ黒な衣服統一したことから通称軍」と呼ばれ戦闘は非常に強かった粗暴な振る舞い多く朱全忠には政略一歩二歩置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠皇帝傀儡とし、907年には遂に禅譲受けて後梁国号は単に「」である。「後」の字は後世歴史家区別するために付けた。以下全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した

※この「唐の完全滅亡まで」の解説は、「五代十国時代」の解説の一部です。
「唐の完全滅亡まで」を含む「五代十国時代」の記事については、「五代十国時代」の概要を参照ください。

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