唐の幽州と范陽節度使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
「幽州」を参照 煬帝の高句麗遠征などで財政が破綻した隋を滅ぼし、建国された唐帝国は、隋の支配の悪さと煬帝がいかに暴君であったかを書き記すとともに、隋の制度を受け継ぎ、国内を安定させ、西はカスピ海、東はオホーツク海に及ぶ大帝国を築き上げた。また、国内を安定すると、周辺部の平定に乗り出した。そのための軍事拠点が幽州に置かれ、北方・東方に対する最重要都市となった。また、やがて中国東北地方と首都・長安(現在の西安)をつなぐ大運河の中継地点となり、唐帝国の辺境貿易の中心地と成った為、商業都市として大いに栄え、城壁なども築かれることとなった。 また、713年にはその地域の高度な軍事権と行政権を持つ節度使の内の一つ、范陽節度使がこの地に設置された。その後、755年には范陽節度使に就任していた安禄山が、中央政府の楊国忠らに対して反乱を起こした。これが世にいう「安史の乱」であり、唐の軍勢を破り[疑問点 – ノート]、安禄山は洛陽を平定するとそこで燕の皇帝を自称、光烈帝を名乗り、燕帝国を築き上げた。その後も安禄山は反乱をつづけ(安禄山方から見れば「討伐」であった[要出典])、間接的にも、世にいう「馬嵬駅の悲劇」[疑問点 – ノート]を引き起こした。また、安禄山死後も安禄山の重臣の子である史朝義(燕帝国第4代皇帝末帝)が自殺し、完全に平定されるには約8年もの月日が費やされる事と成った。そのため、唐の国力は大いにそがれることとなった。このころの名残としては、高句麗遠征の戦死者を弔うために創建された、憫忠寺(現在の法源寺)などである。
※この「唐の幽州と范陽節度使」の解説は、「北京の歴史」の解説の一部です。
「唐の幽州と范陽節度使」を含む「北京の歴史」の記事については、「北京の歴史」の概要を参照ください。
- 唐の幽州と范陽節度使のページへのリンク