唐の律令の継受
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以上のような律令法の特色は、大化の改新後の公地公民制に基づく新しい国家組織そのものの必要から生まれたものである。同時に律令法が「中国古代法典」を母法として継承したことにも理由があった。 律令法は形式、内容ともに主として唐の律令(唐律、永徽律)を模範とした法制であって、この時代の東洋で一種の世界法の役割を果たした唐の律令の日本における分枝とみるべきである。したがって継受法としての律令法と、大化前代の固有法との間には断絶があって、固有の慣習法を基礎として成立した武家法制とは性格を異にする点が多い。 ただ唐の律令を継受するにさいして、日本独自の条件を考慮に入れて重要な修正を行っている事実も注意する必要がある。たとえば、唐の均田制を模範とした日本の班田制は、刑法や官制などとちがって、従来の土地所有制度と調整しなければ実行しがたい制度である。日本の令では唐令を意識的に修正して実施した形跡がみえる。また大化前代の土地私有制の発展段階の相違が考慮されていることも明らかである。 唐田令では、 官人永業田および賜田は無制限に売買・貼賃(ちようちん)(質入れあるいは賃貸のこと)の自由を有し、 庶人の永業田は特別の場合には売買を許され、 口分田(くぶんでん)は原則としては売買を禁じ、例外的にこれを許し、 諸田地の貼賃なども、原則的に禁止されるにとどまった。 これに対して日本令では、すべての田地は絶対にその売買を禁止し、とくに1年間の賃租を許しているにすぎない。このような相違は、国家権力の強さ、土地私有性および交換経済の発展の状態などの相違を反映させたものとみられる。田令ほど重要でない修正は令の各所にみられるが、それに対して律は唐律模倣の傾向が顕著であった。 継受法としての律令法が7世紀以降長期にわたって強行されたことについては、国家権力の強大さ、人民一般の政治的無権利が第一にある。 例えば、律令法の行政組織の最末端にある郷里制にもあらわれている。国・郡・里の里は、50戸をもって構成された。この地方制度は画一的・行政的につくりあげられたもので、大化前代からの自然発生的な集落とはまったく関係のない組織であった。地方の民衆生活のなかでは、「村」は基本的な共同体の単位であったが、それが、法的には全然認められていない事実のなかにも、律令法の特徴がみられる。 したがって律令法のなかに、日本の古代社会の内部に行われていた法慣行を見いだすことは困難である。記紀、隋書倭国伝、祝詞(のりと)などの資料によっても、大化前代の地方族長社会においては、神判制度や宗教からまだ完全には分離しない形での法が存在した。また邪馬台国(やまたいこく)でも公的な秩序・権威の維持のための法が存在したとみられる。 ヤマト王権の時代になれば、刑法を中心とした法が、中国古代法の影響をうけながら不文法の形で発展していたことが推測される。唐の律令の継受も、このような土台のうえに可能となったのであるが、秦・漢以来の歴代の専制主義的法制を集大成した唐の律令と大化前代の日本の法とでは、段階の差が、あまりにはげしかったので、律令法は継受法としての性格を強くもたざるをえなかったとみられる。
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