唐の経済政策
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619年に隋が滅び、その後100年間比較的穏やかな発展が続き、玄宗の治世においては既に隋文帝期の経済水準を回復させていた。しかし安史の乱により状況は一変した。7年2カ月に及ぶ戦乱は黄河下流域に大損害をもたらした。それに対し江南などが受けた被害は軽微なものであり、南方経済が相対的に発展した。その結果、中国の古代経済の中心は完全に南に遷り始めた。一方でそれと同時に、江南8道と四川において、華北の大規模な戦乱とその他の影響により、農業や手工業の生産が発展を遂げた。江南での農業に関しては、『四時纂要』のような農業書が出現し、肥料の導入、農具・品種・農薬の改良と進歩が起こった。 唐代の都市の商品経済は黎明期にあった。長安(雍州、京兆府)、洛陽(洛州、河南府)、魏州、貝州、済州、宋州(睢陽)、楚州、蘇州、幽州(范陽)、揚州(江都、広陵城)、成都(益州、成都府)、広州、晋陽(并州、太原府)などが地域商業の中心となっていった。唐の国内交通路は世界的にも十分発達したもので、陸路は長安を中心として全国に繋がり、水路は洛陽を中心として大運河を通して繋がっていた。唐に駅站は1463箇所あったとされ、内訳は陸駅が1297、水駅が166だったという。商人らは堰坊に商品を保管し、そこに利益も蓄えた。交通も充実していたため、唐中期になると官僚一族や職人は南遷し、長江流域の商業都市の発展は更に加速した。国家財政は江南に依るようになり、「揚一益二」と言われていたが、江南最大の都市である江南東道の蘇州の繁栄は揚州や洛陽を超え、長安に次ぐものであり、また華南で唯一の最高等の州とされた雄州には天下一と言われる郡があり、「当今国用、多出江南。江南諸州、蘇最為大。」とも呼ばれた。その他にも、杭州や湖州などが大きく発展した。蘇州や揚州などの商業都市では坊市制が崩壊し、夜市が出現し始めた。 唐は世界で初めて手形を用いた国家とされる。飛銭は唐代に確立された手形システムであり、交子・会子(中国語版)・交鈔などのルーツとなった。これは藩鎮が管轄外への銅銭流出を防ぐ禁銭政策を採ったことにより、飛銭を用いて長安や洛陽にある銅銭の手形を交換することが盛んになった。こうして唐の大都市の中には堰坊と飛銭が出現した。堰坊は寄付により成り立っていたが、唐末期の黄巣の乱と藩鎮の抗争により、その数は減少し、開元期の繁栄を取り戻すことはなかった:113。 唐代には、海外貿易が栄えた。8世紀後半には広州からマラッカ海峡を通ってインド洋に出て、セイロン島、ペルシャ湾、アデン湾や紅海への航路が開けた。また新羅・日本との航路も活発となり、唐の海上交通の範囲は新大陸発見前の世界の殆どを占めていた。ユダヤ人、ペルシャ人、アラブ人といった中東の商人らは中国を訪れ、沿岸部の交州・広州・泉州・明州(寧波)・揚州などの港は船が頻繁に通るようになり、外国貿易の重要な拠点となった。更に外国貿易が盛んになると、唐は市舶司と呼ばれる特別な官庁を設け、そこで徴税した。外国貿易の数は更に増し、成長し続けた。また、中唐頃になると華南の経済的地位が向上したとされている。 唐末から北宋にかけて、荘園は栄えていたが、大半は地主の自営農場であり、荘園の経営方式は統一されたものではなかった。使役するのも、奴隷や労働者、小作人(佃戸)など様々であった。宋代に至ると、奴隷を用いる農場は少なくなり、小作人(佃戸)を用いる農場が漸増した。北宋末期には雇用制の大農場も減少し、佃戸制が一般化した。 唐の後期には、官僚地主は土地を次々と没収し、均田制は崩壊した。そのため都市部に代わって地方の田や住宅などが拡充した。嶺南東道節度使の韋宙の「江陸別業」では、7000の穀物の山が出来たと記されている。またこの頃は、宋之問の蘭田山荘、王維の輞口荘などが有名な大荘園となっており、江南軍使の蘇建雄は、毗陵にあった別荘には使用人の李誠が何度も往復したとある。また高宗の時代には、王方翼が僻地の田を数十頃(数百ha)開拓し、屋を作って竹や木を植えたとある玄宗の詔には、「王公百官及富豪之家比置荘田,恣行吞併」とある。安史の乱後、均田制は完全に崩れ、荘園経済は更に発達した。陸贄は「今制度弛紊,疆理隳壊,恣人相呑,無復畔限,富者兼地数万畝,貧者無容足之居」と述べた。 唐代には僧侶も大土地を所有しており、袁州の斉覚寺の僧は荘田に常駐し、その蓄えは非常に多かったとされる。また少林寺も柏谷荘を持ち、その大きさは40頃(200ha以上)以上に及んだとされる。また吐蕃が滅んだ後、その地の宗派は領土を分割し、政教合一によりより多くの荘園を生んだともされる。
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