西突厥の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:14 UTC 版)
初めは西突厥の構成種族として現れ、歌邏禄(カルルク)の他に咄陸(都陸)・弩失畢・処月・処密・姑蘇などがいた。 貞観元年(627年)、西突厥の統葉護可汗(在位:619年頃 - 628年)は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国々に対する恩賞を与えなかったため、諸部の衆は怨みを抱き始め、遂に歌邏禄(カルルク)種の多くがこれに離反した。 貞観13年(639年)、西突厥の乙毘咄陸可汗(在位:638年 - 653年)は阿史那賀魯を葉護(ヤブグ:官名)に任命し、怛邏斯川(タラス川)に住まわせた。これによって阿史那賀魯は処密・処月・姑蘇・歌邏禄・弩失畢の五姓の衆を統べることとなる。 貞観20年(646年)頃、東突厥の阿史那斛勃が乙注車鼻可汗と称して唐の羈縻(きび)支配から自立すると、西の歌邏禄(カルルク)は北の結骨(キルギズ)とともに車鼻可汗に附いた。 貞観23年(649年)、太宗は右驍衛郎将の高侃に命じて迴紇(ウイグル)部・僕骨(ボクトゥ)部などの兵を招き寄せて車鼻可汗を襲撃させると、歌邏禄(カルルク)部の泥孰闕俟利発(でいしゅく・キョル・イルテベル:部族長)や抜塞匐部・処木昆部の莫賀咄俟斤(バガテュル・イルキン:部族長)らが部落を率いて車鼻可汗に背き、相次いで唐に投降してきた。その後、唐は阿史那賀魯の部落を賀魯州とし、歌邏禄(カルルク)と挹怛(エフタル)の2部を併せて葛邏州とし、雲中都督府に属させた。 永徽元年(650年)9月、車鼻可汗が高侃によって捕えられると、唐はその余衆と歌邏禄(カルルク)の左廂を鬱督軍山(ウテュケン山)に移住させて渾河州とし、渾河州刺史に統領させ、歌邏禄(カルルク)の右廂を狼山都督府とし、狼山都督に統領させた。唐はこの後、単于都護府と瀚海都護府を設置した。 こうして歌邏禄(カルルク)の部衆はモンゴル高原のウテュケン山(鬱督軍山)に移住したが、アルタイ山脈の西に残った歌邏禄(カルルク)もいた。顕慶元年(656年)、彼らは処密・処月・姑蘇・弩失畢らとともに西突厥の阿史那賀魯に附いて反乱を起こした。8月、左衛大将軍の程知節は阿史那賀魯の所部である歌邏禄(カルルク)の獲剌頡発および処月の預支俟斤らと楡幕谷で戦い、これを大破した。 顕慶2年(657年)、唐は謀落(ブラーク)部を陰山都督府とし、熾俟(チギル)部を大漠都督府とし、踏実力部を玄池都督府とし、各酋長を用いて都督とした。唐は後に熾俟(チギル)部を分けて金附州を置く。三姓歌邏禄(ウチュ・カルルク)は東西突厥間に在って、常に趨勢を眺めて附叛を繰り返した。その後、南に移動して「三姓葉護(ウチュ・ヤブグ)」と号し、次第に強盛となり、庭州以西の諸突厥は皆これを畏れるようになった。 長安4年(704年)、唐は西突厥の阿史那懐道(アシナ・カイドゥ)を十姓可汗兼濛池都護とし、阿史那献を磧西節度使に抜擢した。十姓部落の都擔が叛くと、阿史那献はこれを斬った。唐は碎葉(スイアブ)以西の帳落3万を治めて内属させ、歌邏禄・胡禄屋・鼠尼施の三姓もすでに内属した。東突厥の阿史那默啜が侵掠をなすと、唐は阿史那献を定遠道大総管とし、北庭都護の湯嘉恵らと挟撃させた。唐は突騎施(テュルギシュ)都督の車鼻施啜蘇禄を順国公としたが、突騎施はすでに撥換城(現アクス市)と大石城(現ウシュトゥルファン県)を包囲して四鎮を取ろうとしたので、湯嘉恵を安西副大都護に拝して三姓歌邏禄(ウチュ・カルルク)の兵を発し、阿史那献と共にこれを撃たせた。 開元(713年 - 741年)の初め、歌邏禄(カルルク)は再び唐に来朝した。
※この「西突厥の支配」の解説は、「カルルク」の解説の一部です。
「西突厥の支配」を含む「カルルク」の記事については、「カルルク」の概要を参照ください。
- 西突厥の支配のページへのリンク