西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争とは? わかりやすく解説

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西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)

呂光」の記事における「西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争」の解説

398年1月西秦君主乞伏乾帰は弟の乞伏益州後涼の支陽・武・允吾三城侵攻させた。乞伏益州はいずれ陥落させ、1万余り捕らえて帰還した2月、楊軌は司馬郭緯に歩兵騎兵2万与えて北へ向かわせ、郭黁と合流させた。禿髪烏孤はさらに弟の将軍禿髪傉檀にも騎兵1万与えて楊軌を援護させた。楊軌は姑臧到達すると、城北陣営築いた5月太原呂纂は楊軌を攻撃すると、郭黁がこれを救援した呂纂敗戦喫し帰還した同月北涼君主段業沮渠蒙遜西郡侵攻させ、太守呂純を捕らえて帰還した。これにより、後涼晋昌郡太守王徳敦煌郡太守孟敏もみな段業降った6月後涼常山公呂弘は張掖鎮守していたが、段業は沮渠男成王徳差し向けてこれを攻撃した。その為、呂光太原呂纂にこれを迎え入れさせると、楊軌はこれを好機とみて禿髪利鹿孤と共に出撃して呂纂攻撃したが、呂纂はこれを返り討ちにして大破した。楊軌は王乞基の下へ亡命した。郭黁もまた楊軌の敗戦知って東の魏安へと逃走しそのまま西秦亡命した。 呂弘もまた北涼攻勢抗しきれず、張掖放棄して東へ逃走した段業張掖拠点を移すと、さらに呂弘を追撃したが、呂弘はこれを返り討ちにして大勝したその後段業西安に城を築いて将軍孩を太守任じたが、呂纂はこれを撃ち破った10月後涼建武将軍興城ごと南涼降伏した399年5月後涼天王太子呂紹太原呂纂北涼征伐敢行した。北涼君主段業南涼救援要請すると、禿髪烏孤驃騎大将軍禿髪利鹿孤と楊軌に救援命じた呂紹らは決戦望んだが、段業敢えて出撃せずに守り固めたので、呂紹らは止む無く軍を引き上げた

※この「西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。

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