西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争
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「呂光」の記事における「西秦・北涼・南涼・楊軌との抗争」の解説
398年1月、西秦の君主乞伏乾帰は弟の乞伏益州を後涼の支陽・鶉武・允吾の三城へ侵攻させた。乞伏益州はいずれも陥落させ、1万人余りを捕らえて帰還した。 2月、楊軌は司馬郭緯に歩兵・騎兵2万を与えて北へ向かわせ、郭黁と合流させた。禿髪烏孤はさらに弟の将軍禿髪傉檀にも騎兵1万を与えて楊軌を援護させた。楊軌は姑臧へ到達すると、城北に陣営を築いた。 5月、太原公呂纂は楊軌を攻撃すると、郭黁がこれを救援した。呂纂は敗戦を喫し、帰還した。 同月、北涼の君主段業は沮渠蒙遜を西郡へ侵攻させ、太守呂純を捕らえて帰還した。これにより、後涼の晋昌郡太守王徳・敦煌郡太守孟敏もみな段業に降った。 6月、後涼の常山公呂弘は張掖を鎮守していたが、段業は沮渠男成と王徳を差し向けてこれを攻撃した。その為、呂光は太原公呂纂にこれを迎え入れさせると、楊軌はこれを好機とみて禿髪利鹿孤と共に出撃して呂纂を攻撃したが、呂纂はこれを返り討ちにして大破した。楊軌は王乞基の下へ亡命した。郭黁もまた楊軌の敗戦を知って東の魏安へと逃走し、そのまま西秦へ亡命した。 呂弘もまた北涼の攻勢に抗しきれず、張掖を放棄して東へ逃走した。段業は張掖に拠点を移すと、さらに呂弘を追撃したが、呂弘はこれを返り討ちにして大勝した。その後、段業は西安に城を築いて将軍臧莫孩を太守に任じたが、呂纂はこれを撃ち破った。 10月、後涼の建武将軍李鸞は興城ごと南涼へ降伏した。 399年5月、後涼の天王太子呂紹・太原公呂纂は北涼征伐を敢行した。北涼君主段業は南涼へ救援を要請すると、禿髪烏孤は驃騎大将軍禿髪利鹿孤と楊軌に救援を命じた。呂紹らは決戦を望んだが、段業は敢えて出撃せずに守りを固めたので、呂紹らは止む無く軍を引き上げた。
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