西秦征伐を敢行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
この時期、乞伏乾帰の従弟である乞伏軻弾が後涼へ亡命してきた。 397年1月、呂光は書を下して「乾帰は狼子野心を持っており、かねてより幾度も反覆を繰り返している。朕は東の秦・趙を清め、会稽において銘を刻もうとしているというのに、どうして洮南で豎子(青二才)などと対峙していられようか!今、その兄弟は離間しているから、この機に乗じるべきであり、逸してはならぬ。中外には戒厳を布くよう命じる。朕自らが討伐に向かわん」と宣言し、西秦征伐の兵を挙げた。 同月、呂光は長最まで進軍すると、太原公呂纂には楊軌・竇苟らを始め、歩兵騎兵合わせて3万を与えて金城へ侵攻させた。この報を受けた乞伏乾帰は2万を率いて救援に向かったが、呂光は配下の王宝・徐炅に騎兵5千を与えて迎撃させると、乞伏乾帰は恐れて進めなくなった。呂光はさらに梁恭・金石生に甲兵1万余りを与えて陽武下峡へ向かわせ、秦州刺史没奕干と合流させて共に東へ侵攻させた。呂光はまた弟の天水公呂延に枹罕軍を与え、臨洮・武始・河関に侵攻させると、呂延はいずれも陥落させた。呂纂もまた金城を陥落させて西秦の金城郡太守衛犍を捕らえた。 乞伏乾帰は呂延の下に間者を放って「乞伏乾帰の軍は潰え、成紀へ東奔した」と伝えさせ、離間工作を図った。呂延はこれを信じ、司馬耿稚の諫めも聞かずに軽騎兵を率いて進軍したが、乞伏乾帰軍と遭遇して敗れ去り、戦死してしまった。耿稚は将軍姜顕と共に敗残兵を収集し、枹罕まで退却して守りを固めた。これを受け、呂光もまた姑臧へと軍を戻した。
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