西秦との抗争
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同時期、弟の左将軍呂他・子の武賁中郎将呂纂に北虜の匹勤討伐を命じ、呂他らは三岩山においてこれを大破した。 391年10月、西秦の君主乞伏乾帰が前秦の驃騎将軍没弈干討伐に向かうと、呂光は虚に乗じて西秦の本拠地の金城へ侵攻した。だが、乞伏乾帰はこれを聞くと軍を戻したので、呂光もまた退却した。 392年、南羌の首領であり、西秦に従属していた彭奚念が後涼領の白土へ侵攻した。その為、後涼の都尉孫峙は興城まで退却した。 同年8月、呂光は南中郎将呂方と呂光の弟である右将軍呂宝・振威将軍楊範・強弩将軍竇苟に西秦の本拠地の金城へ侵攻させた。呂方は河北に駐屯し、呂宝が軍を進めて黄河を渡ったが、敗戦を喫して呂宝を始め1万人余りが打ち取られた。次いで呂光は武賁中郎将呂纂と強弩将軍竇苟に歩兵・騎兵5千を与え、彭奚念討伐の為に南へ差し向けた。だが、後涼軍は盤夷において大敗を喫し、軍を退却させた。その為、呂光は自ら彭奚念の征伐に赴くと、呂纂・揚武将軍楊軌・建忠将軍沮渠羅仇・建武将軍梁恭を左南へ進撃させた。彭奚念はこれを大いに恐れ、白土津においてを積み上げて堤を築き、河を利用して守りを固めると、精鋭1万に河津を守らせた。呂光は将軍王宝を密かに上津より赴かせ、夜に湟河を渡らせた。呂光自らもまた石堤より渡河すると、枹罕へと侵攻した。彭奚念は抗戦せずに単騎で甘松へ逃走し、呂光は軍を整えて凱旋した。 これより以前、禿髪鮮卑の首領である禿髪思復鞬がこの世を去ると、子の禿髪烏孤が後を継いでいた。 394年1月、呂光は使者を送って禿髪烏孤を冠軍大将軍・河西鮮卑大都統に任じる旨を告げた。禿髪烏孤は涼州を支配する野望を抱いていたが、呂光の隙を伺うために表向きはこれを受け入れた。 同年7月、呂光は群臣と議論して「高昌は西の果てといえども、形勝の地である。外は胡虜接しており、容易く翻覆してしまうであろう。子弟を派遣して鎮守すべきだ」と宣言し、子の呂覆を都督玉門以西諸軍事・西域大都護に任じ、高昌を鎮守させた。また、大臣の子弟をこれに随行させた。 395年7月、呂光は10万の兵を率いて西秦征伐を敢行した。西秦君主乞伏乾帰は左輔密貴周・左衛将軍莫者羖羝の勧めにより、後涼へ称藩する旨を告げ、子の乞伏勅勃を人質として送った。呂光はこれに応じて軍を返したが、乞伏乾帰は後でこれを後悔し、密貴周・莫者羖羝を誅殺した。 同月、禿髪烏孤は乙弗・折掘らの諸部族を攻撃していずれも降伏させると、廉川堡を新たに築いてこれを都とした。呂光は功績を賞して禿髪烏孤を広武公に封じた。
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