西秦との抗争とは? わかりやすく解説

西秦との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)

呂光」の記事における「西秦との抗争」の解説

同時期、弟の左将軍呂他・子の武賁中郎将呂纂北虜の匹勤討伐命じ、呂他らは三岩山においてこれを大破した391年10月西秦君主乞伏乾帰前秦驃騎将軍没弈干討伐に向かうと、呂光は虚に乗じて西秦本拠地金城侵攻した。だが、乞伏乾帰はこれを聞くと軍を戻したので、呂光もまた退却した392年、南羌の首領であり、西秦従属していた彭奚念が後涼領の白土侵攻した。その為、後涼都尉孫峙は興城まで退却した同年8月呂光南中郎将呂方呂光の弟である右将軍呂宝・振威将軍楊範強弩将軍竇苟に西秦本拠地金城侵攻させた。呂方河北駐屯し、呂宝が軍を進めて黄河渡ったが、敗戦喫して呂宝を始め1万余り打ち取られた。次いで呂光は武賁中郎将呂纂強弩将軍竇苟に歩兵騎兵5千を与え、彭奚念討伐為に南へ差し向けた。だが、後涼軍は盤夷において大敗喫し、軍を退却させた。その為、呂光は自ら彭奚念の征伐赴くと、呂纂・揚武将軍楊軌・建忠将軍沮渠羅仇・建武将軍恭を左南へ進撃させた。彭奚念はこれを大い恐れ白土津においてを積み上げて堤を築き、河を利用して守り固めると、精鋭1万河津を守らせた。呂光将軍王宝を密かに上津より赴かせ、夜に湟河を渡らせた。呂光自らもまた石堤より渡河すると、枹罕へと侵攻した。彭奚念は抗戦せずに単騎甘松逃走し呂光は軍を整えて凱旋した。 これより以前禿髪鮮卑首領である禿髪思復鞬がこの世を去ると、子の禿髪烏孤が後を継いでいた。 394年1月呂光使者送って禿髪烏孤冠軍大将軍河西鮮卑大都統に任じる旨を告げた禿髪烏孤涼州支配する野望抱いていたが、呂光の隙を伺うために表向きはこれを受け入れた同年7月呂光群臣議論して高昌は西の果てといえども形勝の地である。外は胡虜接しており、容易く覆してしまうであろう子弟派遣して鎮守すべきだ」と宣言し、子の呂覆を都督玉門以西諸軍事・西域大都護に任じ高昌鎮守させた。また、大臣の子弟をこれに随行させた。 395年7月呂光10万の兵を率いて西秦征伐を敢行した。西秦君主乞伏乾帰は左輔密貴周・左衛将軍者羖羝の勧めにより、後涼へ称藩する旨を告げ、子の乞伏勅勃を人質として送った呂光はこれに応じて軍を返したが、乞伏乾帰後でこれを後悔し、密貴周・者羖羝を誅殺した。 同月禿髪烏孤は乙弗・折掘らの諸部族攻撃していずれも降伏させると、廉川堡を新たに築いてこれを都とした。呂光功績賞して禿髪烏孤広武公に封じた

※この「西秦との抗争」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「西秦との抗争」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西秦との抗争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西秦との抗争」の関連用語

1
2% |||||

西秦との抗争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西秦との抗争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの呂光 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS