北虜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 20:52 UTC 版)
洪武帝によって北方の草原地帯に追われた元の残存勢力は北元となったが、後に分裂してオイラトとタタールの二部を形成した。初期はタタールが衰退してオイラトが覇権を握り、中国北辺の最大の脅威となった。 1449年、オイラトのエセン・タイシ(後のエセン・ハーン)が明と戦い、正統帝を捕虜とする大勝利を挙げた(土木の変)。その後モンゴル人は一世紀にわたり長城の内側に勢力を保った。その間にタタールがオイラトから主導権を奪い、その中のトゥムド部のアルタンが嘉靖年間に大勢力を築き、中原に進出して明を脅かすようになった。 嘉靖25年(1546年)、アルタンはハーンを称し、明に和平を結び明への入貢を認め、互市を開くよう要求した。朝貢貿易は中国王朝である明側が一方的に損をする貿易であり、各代のモンゴルの指導者はこれを利用して莫大な富を明から奪ってきたのである。嘉靖帝が要求を拒絶すると、嘉靖29年(1550年)6月、アルタン・ハーンは大同を蹂躙し、北京を包囲するに至った(庚戌の変)。この時は脅しだけで撤退したものの、翌年には明と再交渉して市を開かせることに成功した。嘉靖32年(1553年)以降、明の北辺の薊や遼寧といった地域はしばらく平穏な状態になった。 隆慶4年(1570年)、アルタン・ハーンは明軍に投降した孫のバガンナギを救うため、明朝と交渉を行った。翌1571年に合意に至り、明朝はアルタン・ハーンを順義王に封じ、北辺に11の市を開いて貿易することを認めた(俺答封貢)。これ以降、明とタタールは正式な君臣関係と貿易関係を保ち、明の北部・西部辺境は安定期を迎えた。これ以降、「北虜」と呼ばれた北辺の騒優は一世紀の間沈静化した。次に九辺鎮と呼ばれる長城の諸砦に狼煙が上がるのは、女真が勢力を強め清朝が勃興したときのことである。
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