北蝦夷地開拓と大野丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 07:20 UTC 版)
安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行った。内山隆佐は利忠以下藩論をまとめて応募し、自ら探検調査団を率いて渡島半島を調査した。蝦夷地開拓は結局大野藩へは下命されなかったが、大野藩は諦めずに今度は北蝦夷地(樺太)開拓の許可を求めた。安政5年(1858年)、幕府は利忠に北蝦夷地西浦の警固と開拓を命じた。大野藩準領ウショロ場所である。これには船が必要ということで、建造したのが藩船大野丸であった。大野丸は長さ23m、幅7m、2本マストの帆船で、この年7月に進水し、敦賀湾を拠点として北方貿易及び警備兵運送に従事した。 ただし、北蝦夷地開拓は北緯50度まで行ったものの、予想に反して利益が出ず、開拓は行き詰まった。幕府は利忠に対し、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩の江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助した。幕府は北蝦夷地の警固をそれほど重視していたのである。しかし、元治元年(1864年)内山隆佐の死と大野丸の遭難沈没が重なって開拓は頓挫し、明治元年(1868年)に大野藩は明治新政府に樺太を返上し、開拓に終止符を打った。
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