大野藩準領ウショロ場所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:49 UTC 版)
安政5年(1858年)大野藩(藩主:土井利忠)は北蝦夷地西浦のウショロ(鵜城)場所を準領地とし、安政6年(1859年)3月、越前大野藩士・早川弥五左衛門ら30名が、カラフト奥地開発のため藩船「大野丸」でウショロに着任。ウショロ(鵜城)場所の範囲は、鵜城郡域と名好郡域および北樺太ホロコタン(幌渓)までの地域に相当する。拠点の鵜城に会所(運上屋、昭和9年樺太庁が史跡指定)を開設して警固や漁場の開設をおこない、西岸で漁業経営を試みた。また、大坂・箱館・神戸・横浜・岐阜・名古屋・福井・三国の各地に漁獲物問屋「大野屋」を開き、漁獲物の販売も手がけていた。「大野丸」は栖原家から建造中の洋型帆船(君沢型)を譲り受けたものであったという。ウショロ場所には、南から北樺太のホロコタン(幌渓)付近まで本斗安別線の前身にあたる道も通じていたようである。なお、樺太全土が日露雑居地とされたのは慶応3年(1867年)の樺太雑居条約締結後のことである。
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