運上屋
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運上家ともいう。場所請負人によって蝦夷地内(北海道・樺太・北方領土)の場所ごとに85か所設けられ、そこには支配人・通弁・帳役、番人が詰め、住民の撫育政策・オムシャもおこなわれた。この他に漁場ごとに番屋も置かれこちらにも番人が詰めた。運上屋は交易の拠点として設けられたが、やがて漁場の経営も取り扱うようになり、宿場(旅宿所・通行家)や松前藩の出先機関としても機能するようになった。蝦夷地が公儀御料となっていた頃には会所と呼ばれた。大政奉還の直前ころにこの運上屋は廃止となり、「本陣」と呼ばれる箱館奉行の出先機関となった。後志国余市郡(ヨイチ場所)には旧下ヨイチ運上家の遺構が残っている。
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運上屋
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場所請負人 寛政2年(1790年)村山兵右衛門、樺太場所を請負う。 寛政8年から大阪商人・小山屋権兵衛と藩士・板垣豊四郎、翌9年からは板垣豊四郎が単独となる。 寛政12年(1800年)松前藩、カラフト場所を直営とし、藩士・高橋荘四郎と目谷安二郎が管理、兵庫商人・柴屋長太夫が仕入れを請負った。 1809年(文化6年) - 栖原角兵衛(信義)、伊達林右衛門と共同で北蝦夷地(樺太)場所を請け負う。幕命により樺太・久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)と宗谷の間に500 石以上の帆船2艘を就航させ、松前と陸奥三厩の間にも定期航路を開設。 ヲロッコ交易 敷香郡域の幌内川流域以北に住む、ヲロッコやニクブンとの間でおこなわれるオロッコ交易は、クシュンコタンに運上屋が置かれるまで、栄浜郡域の魯礼や内淵が交易地となっていた。唐太場所開設後、クシュンコタン(大泊町楠渓町)の運上屋で行われた。運上屋では、朝貢に近い形態の交易がおこなわれていたが、山丹交易改革以降はシラヌシ(本斗郡好仁村白主)に移った。
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