南倭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 20:52 UTC 版)
詳細は「倭寇#後期倭寇」を参照 15世紀前半の永楽帝治下の明は鄭和の「西洋下り」にみられるように海外進出に積極的だった。しかし永楽帝の孫の宣徳帝は方針を逆転させ、海禁政策をとった。唯一日本は勘合を用いた朝貢貿易(日明貿易)を許されていたが、これも1523年の寧波の乱によって破滅的な終焉を迎えた。またまったく同時期には、南方から進出してきたポルトガル人が九龍半島の屯門を占拠する事件(西草湾の戦い)が発生するなどして、中国沿海は秩序を失い始めていた。 明政府が対外貿易を取りやめたため、日明貿易に従事していた海商は大打撃を受け、海賊化した。こうして登場した後期倭寇は、日本人ばかりによるものではなく、むしろ王直のような中国人が主であった。 胡宗憲・戚継光・兪大猷といった名将の活躍により、嘉靖年間の終わりには倭寇は下火になっていた。
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