ボディダラ家の統治とは? わかりやすく解説

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ボディダラ家の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:10 UTC 版)

アスト部」の記事における「ボディダラ家の統治」の解説

モンゴル再統一成し遂げたダヤン・ハーンは自らの諸子配下トゥメン/オトク分封し、ヨンシエブ・トゥメンは7男のアル・ボラト(別名アルボーラ)に与えられた。しかし、アル・ボラト息子世代内紛原因となってヨンシエブ・トゥメンはアル・ボラトの兄バルス・ボラト家系奪われたようで、この間事情モンゴル年代記一つ『蒙古源流』は以下のような伝承として記録している。 ポディダラは甲成の年(1514年)生まれで、小さいときに、「アジュシラ二人殺し合ったらいいのに。アストヨンシエブ二つを、私が領してやるのに」と歌いながら遊んでいた。その通りに、ウバサンチャ・チン太子息子であるアジュシラ兄弟二人殺し合ったとき、アジュ自分の弟を設したといって財産没収して、シラ子孫のないまま殺されたので、歌の微の通りになったといい合ってアストヨンシエブ二つをボディダラに領させた。 — 『蒙古源流』上のような逸話どれほど史実反映しているかは不明であるが、いずれにせよアストヨンシエブ二つ」の統治権バルス・ボラト末子ボディダラに移ったことは、明側の漢文史料の『北虜世系』に「オトハン・ボディダラ・タイジ:営名はヨンシエブで、宣府・張家口から正北に20日ほどの行程の場所で遊牧していた」とあることからも確認される一方、元々はヨンシエブ・トゥメンの一部であったハラチン部はボディダラの兄バイスハルが領有するようになり、分離したヨンシエブ部を凌ぐほどに強大な部族成長したここにおいて名称の逆転現象起きかつては「ヨンシエブ・トゥメン」の中にアスト部ハラチン部服属していたのに対し、これ以後は「ハラチン・トゥメン」の中にアスト部ヨンシエブ部が属すようになった。そのため、後の史料中にはアスト部領主が「ハラチン人」を称する事例見られる。 ボディダラにはエンケダラ、エセンダラ、ノムダラという3人の息子がおり、長男エンケダラがヨンシエブ本部を、次男エセンダラがバルグ部を、末子ノムダラがアスト部継承した

※この「ボディダラ家の統治」の解説は、「アスト部」の解説の一部です。
「ボディダラ家の統治」を含む「アスト部」の記事については、「アスト部」の概要を参照ください。

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