ボディダラ家の統治
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東モンゴルの再統一を成し遂げたダヤン・ハーンは自らの諸子を配下のトゥメン/オトクに分封し、ヨンシエブ・トゥメンは7男のアル・ボラト(別名アル=ボーラ)に与えられた。しかし、アル・ボラトの息子の世代の内紛が原因となってヨンシエブ・トゥメンはアル・ボラトの兄バルス・ボラトの家系に奪われたようで、この間の事情をモンゴル年代記の一つ『蒙古源流』は以下のような伝承として記録している。 ポディダラは甲成の年(1514年)生まれで、小さいときに、「アジュとシラの二人が殺し合ったらいいのに。アストとヨンシエブの二つを、私が領してやるのに」と歌いながら遊んでいた。その通りに、ウバサンチャ・チン太子の息子であるアジュとシラの兄弟二人が殺し合ったとき、アジュが自分の弟を設したといって財産を没収して、シラは子孫のないまま殺されたので、歌の微の通りになったといい合って、アストとヨンシエブの二つをボディダラに領させた。 — 『蒙古源流』 以上のような逸話がどれほど史実を反映しているかは不明であるが、いずれにせよ「アストとヨンシエブの二つ」の統治権がバルス・ボラトの末子ボディダラに移ったことは、明側の漢文史料の『北虜世系』に「オトハン・ボディダラ・タイジ:営名はヨンシエブで、宣府・張家口から正北に20日ほどの行程の場所で遊牧していた」とあることからも確認される。一方、元々はヨンシエブ・トゥメンの一部であったハラチン部はボディダラの兄バイスハルが領有するようになり、分離したヨンシエブ部を凌ぐほどに強大な部族に成長した。ここにおいて名称の逆転現象が起き、かつては「ヨンシエブ・トゥメン」の中にアスト部とハラチン部が服属していたのに対し、これ以後は「ハラチン・トゥメン」の中にアスト部とヨンシエブ部が属するようになった。そのため、後の史料の中にはアスト部の領主が「ハラチン人」を称する事例が見られる。 ボディダラにはエンケダラ、エセンダラ、ノムダラという3人の息子がおり、長男エンケダラがヨンシエブ本部を、次男エセンダラがバルグ部を、末子ノムダラがアスト部を継承した。
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