ウスハル・ハーン説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:18 UTC 版)
「マイダリ・バラ」の記事における「ウスハル・ハーン説」の解説
マイダリ・バラをトグス・テムル・ウスハル・ハーンと同一人物と見る説。前述したように当時の明人はこのように考えており、現代でも薄音湖がこの説を支持している。永楽帝はオルジェイ・テムル・ハーンに送った勅書の中で「洪武帝はトグス・テムル(妥古思帖木児)を保護してモンゴルに送り返し、後にトグス・テムルはハーンになった……」と述べており、少なくとも永楽帝の時代にはマイダリ・バラ=トグス・テムル・ウスハル・ハーンという考えは明朝で広まっていたとわかる。 しかし、1388年に殺されたトグス・テムルは既に成人した息子を2人(天保奴と地保奴)有しており、1370年の時点でまだ幼児であったマイダリ・バラと同一人物とするにはやや無理がある。また、王世貞の「北虜始末志」には「恵宗(トゴン・テムル)次子益王脱古思帖木児(トグス・テムル)」という記述があり、これはトグス・テムルをトゴン・テムルの息子でアユルシリダラの弟とするモンゴル年代記の記述と合致する。そのため、和田清はマイダリ・バラとトグス・テムルは別人であり、トグス・テムルはトゴン・テムルの次男と解釈すべきと主張した。
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