部族時代とは? わかりやすく解説

部族時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)

回鶻」の記事における「部族時代」の解説

丁零族は時代とともに高車”(こうしゃ)→“鉄勒”(てつろく)と表記変わりその中でウイグルも袁紇→韋紇→迴紇回紇などと表記変わっていった。 高車時代 登国5年390年3月北魏道武帝西征し、鹿渾海にて高車の袁紇(ウイグル)部を襲い、これを大破し生口・馬牛羊20獲得した和平5年464年)、五部高車盛大に天を祭り集まった衆は数万及んだそのとき文成帝在位452年 - 465年)が高車の衆を召して南征従軍するよう命じたが、高車南征への従軍拒み遂に袁紇者を推戴して主とし、北魏に叛いた。都督宇文福高車追討したが、大敗して還る文成帝はまた詔で平北将軍江陽拓跋継に都督としてこれを討たせた。拓跋継は先に人を遣わして袁紇者を慰労した。袁紇者は一旦柔然逃亡したが、まもなく部衆を率いて北魏降った鉄勒時代 605年鉄勒諸部は西突厥泥撅処羅可汗在位603年頃 - 612年)の攻撃を受け、特に薛延陀部いたって叛乱疑いがあるとして渠帥など数百人が生き埋めさせられた。そこで韋紇(ウイグル)部は僕骨部・同羅部・抜野古部・覆羅部などとともに西突厥の支配から脱して回紇ウイグル)部と号し鉄勒諸部の部族長はみな俟斤(イルキン)を称した。このとき、回紇の部衆は(ヤグラカル)氏の特健を推戴して回紇部の俟斤(イルキン:部族長)とした。 貞観3年629年)に東突厥が唐に敗れると、回紇部薛延陀部と共に北方草原地帯における2強となったが、回紇部吐迷度が諸部とともに薛延陀部の多彌可汗大破したため、単独鉄勒諸部の盟主となった貞観21年647年)、回紇部は唐の羈縻(きび)支配下入り、瀚海都督府となって燕然都護府属す。しかし龍朔2年662年)、回紇部は同羅部・僕固部と共に唐の国境侵し、唐に対して反旗を翻した。唐の高宗在位649年 - 683年)は鄭仁泰に命じて僕固らを討たせ、回紇比粟毒敗走させる龍朔3年663年)、唐は燕然都護府回紇に領させ、瀚海都護府とした。 則天武后時代690年 - 705年)、東突厥第二可汗国が再び草原地帯覇者となると回紇部始めとする九姓鉄勒(トクズ・オグズ)はその圧迫を受けるが、第二可汗国衰退と共に再び勢力増していった。

※この「部族時代」の解説は、「回鶻」の解説の一部です。
「部族時代」を含む「回鶻」の記事については、「回鶻」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「部族時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「部族時代」の関連用語

1
4% |||||

2
4% |||||


4
2% |||||

5
2% |||||

部族時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



部族時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの回鶻 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS