部族指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/24 15:23 UTC 版)
1862年、ジョン・ロスがチェロキー族国家から逃げ出してワシントンD.C.に向かった後で、ワティーはチェロキー族国家の大首長に選ばれた。ロスの支持者はこの時少数派になっており、ワティーの選出を認めることを拒み、「北軍チェロキー」と「南部チェロキー」との間に交戦状態が起きた。南北戦争が終わった後で、両派はワシントン市に代表を派遣した。ワティーは母族と別に、「南チェロキー族国家」の部族公認をアメリカ連邦政府に要求したが実現しなかった。 連邦政府はその代わりに1866年に北軍チェロキー族と条約を交渉し、ロスを正当な大酋長と宣言した。チェロキー族国家の中で再度敵対関係が起こるものと思われたが、ロスが死んだため、選挙のやり直しが必要になった。1867年の選挙では妥協派の候補者である血気盛んなルイス・ドウニングが選ばれたが、やがて彼は鋭敏で政治的に抜け目の無い大酋長として立ち回り、最終的に平和的な再統合に漕ぎつけた。ただし、部族内の緊張関係は20世紀に入っても表面下で続いた。
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