人民民主党政権への反発
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「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」の記事における「人民民主党政権への反発」の解説
1919年の独立以降、アフガニスタンは王国であり、1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議のロヤ・ジルガによって推戴されていた。ザーヒル・シャーは従兄弟のムハンマド・ダーウードを首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。1973年、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のためにイタリアに赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。ダーウードは中立的な外交政策でソ連とアメリカの両方から援助を引き出し、国内の開発を進めようとした。 1978年4月27日にダーウードはアブドゥル・カディル大佐に暗殺された。共産主義政党アフガニスタン人民民主党が政権を掌握し、4月30日に革命評議会布告第1号によって国名をアフガニスタン民主共和国(DRA)とした。5月1日に発足した政権の首班はヌール・ムハンマド・タラキー革命評議会議長兼首相で、バブラク・カールマルが副議長兼副首相、ハフィーズッラー・アミーンが副首相兼外相となった。 革命政府は1978年12月2日の革命評議会布告第8号により、封建的土地所有を解体する土地改革を実施する方針を打ち出した。耕地としての価値で区分した7等級のそれぞれに所有の上限を設け、限度を越えた分を無償で没収し、農民に無償で分配するものである。土地改革は1979年1月から実施され、4月までに26万866.4ヘクタール(2686km2)が13万2264家族に分配されたという。部族指導者の物的利益を直撃する土地改革は、彼らの強い反発を招いたが、政府は軍隊を派遣し農民に武器を配って改革を実施した。また、政府が男女平等政策を進めたことも、宗教意識を逆なでするものであった。 外交的には非同盟・中立を標榜したが、ソ連寄りの姿勢は早くからはっきりしており、5月15日にソビエト連邦と共同声明を発してあらゆる分野での協力を約し、12月5日には善隣友好条約を結んだ。この条約は軍事協力に関する条項を含んでおり、ソ連は1979年1月に軍事顧問団を派遣した。
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